« 幻の終戦工作 | Accueil | 新司法試験プレテスト »

lundi 15 août 2005

Commentaires

平田

 サスケットさんの優しい説諭にはいつも頭が下がります。サスケットさんは削除する場合について検討していますので、私は削除しない場合について検討してみましょう。
削除しない場合の可能性として以下の3つが考えられます。
1.平田はいつも馬鹿なことばかり書いているので完全無視。
2.削除するとこのブログの運営方針に矛盾が生じるのでしたくてもできない。
3.このブログは「釣りブログ」ではないことを完全に認めた。

 1は有り得ません。なぜなら私は馬鹿なことを書いたことなど一度もないからです。2も今まで多くの人から既に矛盾だらけであることを指摘されていることを考えると今更気にしているとは思えません。つまり3しか有り得ないということになります。このブログは「釣りブログ」ではないということで宜しいでしょうか?
 つまり実社会で「あいつら単純で面白いよ。ちょっと煽ると直ぐ反応して可愛いよ。アクセスが10分の1になったときはどうしようかと思ったけど、直ぐ元に戻せたよ(笑)」などとは決して言ったことがないということで宜しいですね?もし確かに言ったことがないというのであればこのコメントは削除してください、管理人様。

匿名希望

うが、肝心な文章が抜けた
以下前コメントに追記

---
と、私は考えます。
多分穴のある意見なので反論ついたほうが楽しいとおもう、でも今ついてるコメントの続きも気になる。

匿名希望

難しい…

ネット上で立証責任(挙証責任?)とか求められる場合ってどんなんでしょうね。

すくなくとも、特定個人、職種、立場への罵倒にあたるときには遠慮なく求めてOKな気はしますね。

逆に、「私はこう考える」という発言にたいしては、興味があれば根拠を訊くくらいかな、断言したわけじゃないし。

あと何人か気になってる人もいるみたいなので追記、「伝統的な議論の作法」なんてものは存在しません、個人や小集団レベルでは存在するのかもしれませんが。そのときそのときの集団やテーマに応じていくらかのルールや流れ、常識としてのマナーはあっても、たとえば九○大学工学系の学生間ではエントリにあるような作法ではおこなわれません、やってたら悲しいけど。

前言を翻すようですが、気をつけるのは以下
1.細かい証明を求めない
2.証明できないことは断言しない
3.意見と事実は文章上で区別可能にする
4.論破が目的にならないようにする
5.自身の発言が特定他者への否定にならないようにする
6.5が満たせない場合、必ず客観的な根拠を加える

議論の作法じゃなくて会話のマナーなんだけどね。

サスケット

それ、だー。
平田さんよいタイミング。

>あっ、もしここがそのような「釣りブログ」でないならばこのコメントは削除しないでくださいね、管理人様。

例えばこれはこう読み返られます。
・「釣りブログ」でないことを立証するために、削除しない責任を果たす
とかね。
でもこれも、けして義務とはいえない。
証明しない=削除するのは別に無問題。
ただその結果として、 『平田氏はココを釣りブログ認定』という事態が生じるわけですよ。

そこでコストパフォーマンス(?)と言う考えが出てくる。

・別に平田さん好きに思えばいいガネ
・もしかしたら平田さん以外も釣りだと認識して馬鹿にされるやも、それはまずいな
・平田さんや他の人が釣り認識しても匿名の卑怯者が言うことなら気にせんがね
・このブログ見てる自分の友人まで釣り認定したらどうしよう
・わが友はそんなことは思わないから気にする必要はない

とか、影響とか、波及効果とか、手間とか、自分の性格とか考えて、「誰に」「どこまで」立証するべきかが変わってくると。
裁判長に信じてもらうのか、友達にさえ信じてもらえばいいのか、観客に読んでもらいたい・観客に信じてもらいたいのか。
そう、つまり。
>「誰に」「どのような心証」を抱かせたら「立証」したことになるのか
これが微妙『実状』と違っていて、「誰に」「どのような心証」を『抱かせたい』と考えるのか、でしょう。
必要性も判然としないカンペキに近い証明を義務だの責任だのとするほうがおかしい。
で、『立証』しなかった結果、もしくは立証した結果、友人がどう思うか、オーディエンスがどう思うか、対戦相手がどう思うかが変わってくる……その結果は貴方の行動の責任ですよと言う話。

つまり、立証責任という言葉を弁護士ギョーカイ的な受け取り方ではなく、「証明してくれないと俺はあんたの言葉を信用しないけどそれでいいか?」という読みをするのがより近しいでしょう。
だから『状況に応じてテケトー(適切で妥当のほう)に変動させると言う考え方が必要だと思います。』となるわけで。


故に『ぱっとしない』のも当然至極。
だってあったりまえのことですゆえにー。当たり前のコメント=ぱっとしないコメントしかつかなかったのですよー。

U-me

「立証」とかやたら「」つきなのはどういう意図があるんだろう~♪

発言の根拠となる部分が不明だから求められるとか、そもそもどのような意味に理解してその言葉を使っているか不明だから説明を求められるとか、その程度のことですよ。

小倉さんだって、例えば私が「小倉さんはブンダーですね」と言ったら「?」と思いませんか?その場合「ブンダーってなんですか?」と聞きますよね。そこで私が「あるネットユーザー層を指してブンダーと呼ぶそうですが使う人によってニュアンスが微妙に違うようです。」「誰か教えてくれませんかね。」「私はブンダーであるという人を募集します。」とか言われたらどうですか?困りますよね。ギャラリーまで「あいつは死ぬまでブンダー!」とかなんか言っている。戸惑いますよね。

議論ってのはとにかく意見をぶつけあって一つの結論を出すために大抵は行われますが、とにかく意見をぶつけあって互いの相違点を確認するために行う場合もあります。後者のような立場で臨めば小倉さんももう少し気楽にできるんじゃないですかね


※ちなみにブンダーってのは別に意味のある言葉じゃありません。わけのわからない言葉として使ったまでです。死ぬまでブンダーはいやです。

平田

私は知らなかったんですが、世の中には「釣りブログ」というものがあるらしいんですよー。

参考までに
http://hatahata.mods.jp/archives/2005/08/022345.html

で、そこの「釣りブログ」の説明を読んでいると、ここのブログのエントリ内容がほとんど全て当てはまるような気がしないこともないんですが気のせいでしょうか?(まあ左右の違いがあるにはありますが)
 それで思ったんですけど、もしかしたらネットウヨとかいう人たちが作った「釣りブログ」にまんまと引っ掛かって屈辱を受けた人(それを屈辱と思うかどうかは各人の日頃の行いによりますが)が逆にネットウヨを引っ掛けて面白がっているということはないんでしょうか?

そこのブログによると「釣りブログ」に対しては
>善意が誰にでも通用すると考えている純真な一般市民が騙されて犠牲になっているようですので、その意味では看過できないかもしれません。

というのと
>たいがい「アホはほっとけ」的な意見の人ばかりです。

の2つの考えがあるようなんです。私の考えでは始めは前者で純真な一般市民の犠牲を出さないようにすることも必要と思いますが、ほぼネット上においてそのような認識が定着しているならば、その後は後者の方の取り扱いの方が犠牲は最小限に抑えられるのではないかと思っています。というのは、いつまでも前者のままでいると始めてきた人がよく読まずにまるで真っ当な議論がなされているような勘違いをして犠牲になってしまう人がでる可能性があるからです。私の「釣りブログ」に対する見解ですが、皆さんはどう思われますか?

追伸)それにしても「釣りブログ」にはコメント欄が必須というのはせめてもの救いですねー。ないと釣れたかどうか分からないので、はずせるわけないですからね。あっ、もしここがそのような「釣りブログ」でないならばこのコメントは削除しないでくださいね、管理人様。それが証明になりますので。

hide_yo

これまでのエントリーを要約すると、「自分の言いたいことを言うだけー、他人の言うことは聞きませーん」みないな事を正当化しようとしてる感じですかね?
これを正当化したとして、これのどこが議論なんでしょう?あなたは議論に何を求めているのでしょうか?
あなたがそう思うなら何故コメント欄を残しているのかが不思議です。
「議論をしてるんだー」という格好づけの為だけにコメント欄を用意しているのですか?
小さいプライドですね。
まー、今のあなたの心には届かないでしょうがね…。

サスケット

おお、そうそう。ある程度はわかっていただけた用で何より何より。
ようやく半分くらい伝わった気がするよイヤッフ―


私も前から何度か言っていますが、例えば逃げたきゃ逃げてもいいんです。
私自身もそういう意味での『立証』の『責任』なんか気にしたことはないし(別の意味では気にしますが後述)、他人が求めたり求められたりしても大概スルーして忘れてしまうので具体例URLがぱっと思い浮かばないのですが、立証しなければならない責任――すなわち義務が生じることなんて滅多にない。
ほとんどナイ。

ですが例えば自己満足でトンティンカンなネタばらまいた時に、証明できるのか?と問われた時。
なーんにも言えなくて、

  「ああ、こいつの意見は信用するに値しない駄ネタだな」

で終って馬鹿にされるか、あるいはなんらかの情報ソースを挙げて自説を補強するなりして、完璧ではないにせよ説得力を増やしてオーディエンスの関心を揺さぶれるか。
要するにそこなんですよ。

ようするに、「立証」だとか「責任」だとか言う単語の使い方、あるいは受け取り方が悪い(弁護士ギョーカイでの使い方・受け取り方ではないと言う意)と言うのは確かなことで、
きわめて常識的なこと――

妄想ネタばらまいてたら馬鹿にされ、
説得力のある意見であれば感心される。

多くのパターンはただそれだけであるはずです。おっしゃるとおり「(弁護士ギョーカイ的)立証」まで求める必要性があること自体少ない。
つまりですね。
×「相手は立証責任を果たしていないから、自分の言っていることの方が真実なんだ」
○「自説の補強も出来ないやつと違って、こっちは自説に説得力をもたせているから観客はこっちを信じてるぜぇ」

自己満足と言う言葉があったので借用して説明すると。
せっかくばら撒いた意見。
誰も信じてもらえず、読んでもらえず、ただリソースの無駄遣いをすることこそ自己満足。
『せっかく書いた文章』が以下に有効活用されるかという点に於いて、説得力を付与すると言う作業は自説を無駄にしないためには必須のプロセスです。
「自説が無駄になろうが知らんわい」という自己満足に終らせないために、立証責任=可能な限り説得力をもたせる行為が必要とされる訳ですな。

つまり、立証責任という言葉が出てきた時、

  意見を言う
  ⇒言うからには正しいと思ってるんだろう
  ⇒その正しいと認識した理由は何ですか?という疑問発生

このようなプロセスにおいて、『立証=妄想をばらまかないでよね』『責任=ジョークやウソや妄想を本当だと誤認させるようにばらまいちゃ駄目でしょ?』というような……上手い語彙が見つからない……用法で使われていると受け取っておくが吉でしょう。
むしろ弁護士ギョーカイ的意味合いで責任を押し付けられたら、バーヤ!バーヤ!バーヤ!とか言ってあげてもいい気がする。

#しかし『(弁護士ギョーカイ的でない)立証』をしないパターンって、暗に「俺の意見信じたくないなら勝手に妄言と思ってろ。納得できないからって駄々こねるなバーヤ!」である可能性が高いので『責任』なんてガッチリした単語とくっついてしまうんでしょうな。これが最初から「信じるも信じないも自己責任です」とか書いてあるとまた違う展開があるんでしょうが。

ま。このようなことから、Мышкинさんがオーディエンス、わたしが観客が証明すると言っていた話に繋がるので再読希望。


私はJSFさんとは違って、証拠が出なくても発言を撤回『すべき』とまでは思わないですけれど、だとしてもなんだかよくわかんねー、な証拠も何も無い発言があったとしてもそれは信じない。
ネットの情報に限らず、朝日新聞のような誤報があったりする昨今。出された情報を盲信するだけではなくて、どうして信じるかという受け手の意識も必要なわけですよ。
だからそんなものは信じない。100%とはいわないけれど「根拠」は要る(もうあえて立証とか言わない)
だから証拠も出せない妄言垂れ流してても、誰も信じてくれない、だからろくに意味の無い、自己満足に過ぎない、とかそんな感じでー。

Мышкин

立証責任なんてのはないでしょうね。電波をゆんゆんさせることすら自由です。そして…それにコメントを付けることもその人の勝手です。偶然または必然的にそのコメントが山のように寄せられようとも。ただ、それだけです。ネットは個人の勝手に振舞える範囲が大きいのではないでしょうか。

「特別の立証をせずに持論を展開するのは自由だが、それに対して異を唱えるコメントを大量に寄せるのは駄目」というのが滑稽なだけで、私に言わせれば「どちらもその人の勝手」です。第一、ブログ主にはコメント欄閉鎖という選択肢があるのですから。

それ以上何が欲しいのでしょうか?

中井亀之助

 私はネット上で立証であるとか、証明を行うことは、ほぼ不可能ではないかと思っております。
 というのは、ネット上の情報が、リアルな現実や史実とどこまでリンクしているかわかりません。ネットで校閲をしているサイトは少ないと思います。
 たとえば有名企業やマスコミサイトでは、あからさまな嘘を書くことはないでしょう。しかしそれ以外のサイトで嘘が書かれていても、それを裁いたり「判決」を下す仕組みができるものかどうか。経済的にも、ネットがうまれもった法カルチャーからしても、まったく無理だと思います。彼らが受けうる罪はただひとつ「アクセスがなくなる」ということではないでしょうか?

 したがって、「ネットの議論で証明が求められている」とか「重要だ」、という前提自体が僕にとっては違和感があります。そしてあらかじめ言っておきますが、その前提(証明の重要性)から導き出されるかもしれない結論やシステムの議論は、根本から間違っているのかもしれない、と思います。

 ネット上でそれでは判定がどう下されるかというとむしろ、「言語市場における経済システム」のようなものではないかと思います。商取引の際、特に私たちはなにも証明しません。ある商品を受け取ったとして、よかったとか、わるかったとか、いろいろな意見がでるだけです。次に買うかどうかを決めるだけです。

まず、そのサイト(言論マーケット)に来る以上、そこでの言論は来る人にとっては(いい意味でも悪い意味でも)魅力があるのだと思います。
意見市場では、いろいろな意見がでるわけですが、これは多数決というわけでもないようです。
 心ある人(その人たちはほとんど発言していないと思いますが)がそのサイトのかまびすしい議論を見て、心の中で判定を下します。

 自主性のない便乗意見(ネット右翼?的)は、彼らのマインドにほとんど影響を与えないでしょう。
 自力で考えているのか。論旨が一貫性しているか、最低限の誠実さがあるかどうか、引用を行うときの節度があるか、論戦に立ち向かうときの作法はどうか。ユーモアはあるか?などでしょう。
 エントリに書き込んでいる人には直接届かない読者共同体が判断を下している。そう考えたほうが、なにやら、議論の質があがるようにも思われます。そう。そして、これは「想像力」の問題でもあります。

ペタ

「伝統的な議論の作法」とは初めて耳にした言葉です。その意味をご教授願います。

remainder

Mr.Ogura.
This is remainder speaking, agein.
Have you been forgotten long time?

http://benli.typepad.com/annex_jp/2005/07/post_3.html#comment-7546367
---------------------------
Hi. Mr.Ogura.
I can read your comments again.
Hear me ?
Watch my mouse in French comments !
And be coming back your answers in French as soon as POSSIBLE, if you are really able to read & write in French !
Thank you.

Re'dige' par: F.Suzuki | juillet 10, 2005 09:23 PM
---------------------------

ヘクサ

>インターネット上では、伝統的な議論の作法に慣れていない人々が元気なので、
 
先生の想定する「伝統的な議論」とは、どのようなものを言うのでしょうか?
そこではコメンテータを「臆病者」とか「卑怯系」とか罵倒することは許されるのでしょうか?

L'utilisation des commentaires est désactivée pour cette note.