加野瀬さんのブログの「「匿名批判の禁止」黒木ルールメモ」というエントリーに対して、samageというハンドルを用いているコメンテーターが「この手の理屈が他人の同意を得にくいのは「俺を批判するの禁止!」という子供っぽい話を、「匿名で発言することの問題云々」にスライドさせて押し通そうとする”戦法”のうさんくささがあるからで、匿名の発言それ自体に関するアレコレとは別のところに問題があると思うけどね。」というコメントを投稿していました。
しかし、「匿名批判の禁止」が「俺を批判するの禁止!」という「子供っぽい話」の亜種たり得るためには、少なくとも「『俺』を批判することは匿名でなければできまい」という自負が「匿名批判の禁止」を主張する側にないといけないわけです(匿名を用いなくとも「俺」を批判することができるだろうと思っていれば、「匿名批判の禁止」はまさに「匿名での」批判を禁止するという意味しか持たず、実名を用いての批判については禁止しないわけですから。)。
では、加野瀬さんにせよ、「黒木ルール」の提唱者である黒木玄さんにせよ、「匿名のかたに対する批判も反論もしない」との方針を表明する津村さんにせよ、「『俺』を批判することは匿名でなければできまい」という自負を持つ合理的な理由はないし、おそらく持っていないように見えます。みなさん、正当な批判を押しつぶすような権力をお持ちのようにはお見受けできませんから。
したがって、「匿名批判の禁止」黒木ルールメモ」というエントリーに対して、「「俺を批判するの禁止!」という子供っぽい話を、「匿名で発言することの問題云々」にスライドさせて押し通そうとする”戦法”のうさんくささ」を感じたのは、samageさんの単なる勘違いだった可能性が高いのではないかと思います。
もっとも、samageさんが想定している「批判」というのが「匿名でなければできない」ものであった場合、加野瀬さんらの意図とは関係なく、samageさんとの関係では「匿名批判の禁止」は「俺を批判するの禁止!」という話の亜種たり得るのかも知れません。
では、匿名でなければできない「批判」としてはどういうものが考えられるのかというと、特別な権力を持っているわけではない1ブロガーが打ち立てたエントリーについての「批判」コメントについていうと、大きく分けて2とおりのパターンが考えられるのではないかと想像できます。
1つは、その批判を行ったのが自分であると相手方に知られると、相手方から訴訟を提起されるなどして法的な責任を負わされるような「批判」です。
もう1つは、その批判を行ったのが自分であると自分の周囲の人々に知られると、周囲の人々から白い目で見られるような「批判」です。
つまり、このような意味で「匿名批判の禁止」を「俺を批判するの禁止!」という話の亜種と捉えてしまう人々というのは、自分の批判が、相手方から訴訟を提起されるなどして法的な責任を負わされるようなものであるか、または、周囲の人々から白眼視されるようなものであることを十分に自覚されている人々である可能性が高そうに思います。
その「批判」の主が自分であることが周囲の人々に知られたら周囲の人々から白眼視されてしまうような「批判」は、「公言」を控えるか、あるいはどうしても「公言」せずにはいられないのでしたら、周囲の人々から白眼視されることを甘受するのが「大人の対応」というべきなのであって、そのような恥ずかしい「批判」を「公言」することを我慢することはできないが、その「批判」の発言主として相応の軽蔑を受けることを甘受する度量もない(それゆえ、「匿名批判の禁止」が即ち「俺を批判するの禁止!」に見えてしまう。)という方が、むしろ「子供っぽい話」に感じられます。
そして、ブログ主には、「俺は、人々から白眼視されるような内容又は方法でお前を『批判』したいが、そのことで現実空間での自分が周囲の人々から白眼視されることには耐えられないから、匿名での『批判』を許容しろ」という「子供っぽい」要求に応ずる必要が法的にも倫理的にも存在しないことは言うまでもありません。
【今日聴いた曲の中でお勧めの一曲】
"Wake Me Up When September Ends"
by Greenday