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jeudi 20 avril 2006

Commentaires

憑依

 日本のブログを見ていると、他人を見下した人が一番「論破」にこだわり、自分が「論破」できない悔しさや「論破」されたときの屈辱感にこだわる気がします。
 そもそも漢語の論破とは、本来、論理的に反論の余地がない真理であって、反論できる論理の穴があるのに、反論能力がなくて無視嫌味皮肉当て擦り罵倒さらには権威のヒケラカシや借用(ハロー効果)で応じるのは論破されたとは認められません。

小倉(コクラ)秀夫です

>何はともあれ、ある命題について相手が反論のコメントをしなくなったことをもって「論破」というのであれば

 小倉先生。僕はそれは違うと思います。相手が反論のコメントをしなくなったことには、
(1)相手の質問に答えず、次々と論点をずらすエントリを立てて「立て逃げ戦法」をする場合や、
(2)相手の質問を黙殺する「シカト戦法」をする場合や、
(3)相手のコメントをまとめてバッサリ削除する「臭いものに削除蓋戦法」をする場合
があります。
 これは誰も「論破」とは言わないと僕は思います。

佩里(ハイリ)

 論破というよりは、誹謗中傷罵倒嫌味皮肉当て擦りがひどくて、根拠もソースもない独りよがりなので、しかも以前のコメントと矛盾するエントリを次々とアップするので、もはやマトもに相手にされていないだけではないかという気がします。オルタナティブは何も山田君の専売特許じゃありません。
 自分の価値観や立場も社会的条件も違う人が存在することを、攻撃でなくて許容尊重し、その人たちと真摯に議論しなければ、永久にエントリの書き捨てで終わり、「そして誰もいなくなったブログ」になることを恐れます。

irose

んで、
「1+1=2である」ってウヨクが言ってもサヨクが言っても関係ないよな、と「受け手」として判断する
のが、「誰が言ったかは問題ではない」
なんですよ、

というのを踏まえて1個前のエントリをご自身で読み直しては如何。

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