それにしても、私の前々回のエントリーやまさくにさんのところのコメント欄に意見を寄せてくれた「日本人であることを誇りに思う人々」は、「日本人であること」のどのような点を誇りに思っているのか説明をするのが上手ではないようです。実のところは、観念的に「日本人であること」を誇りに思っていることにしようと努めているだけで、本心では誇りになど思っていないのかもしれません。本心から誇りに思っているのであれば、周辺諸国を貶めることによって相対的な優位性を確保しようとするのではなく、その絶対的な優位性を前面に押し出せば足りるはずです。
もちろん、「日本人」というのは──日本国籍を有する人という意味で用いた場合には──日本国籍を有しているという以上の共通点はないのであり、大抵の場合、両親のいずれか又は双方が日本国籍を有していたということから出生と同時に日本国籍を取得し、「日本人」となっているわけで、そこには特に「誇るべき何か」というものはありません。したがって、ことさら「日本人であることを誇りに思う」こととしようと思ったら、「日本人ではない何者か」を貶めることによって「日本人であること」の相対的な価値を上げるのが一番お手軽です。だからこそ、「日本人であることを誇りに思う」ことを正当化するのに、周辺諸国のことを持ち出す方々が少なからず出てきます。
それって、白人であることに誇りを持ち黒人等を侮蔑する人種差別主義者と同レベルの醜悪さをもっているわけで、そういう浅はかな考えを抱いてそれを公言してはばからない人々に対しては、それは醜悪なのだということを何度でも言って聞かせるのが実は大人としての態度なのではないかとも思ったりするわけです。少なくとも、「いい国つくろう」と標榜しているまさくにさんが、醜悪な差別主義を何か格好いいものと勘違いしている人々に対してそれは醜悪なのだと何度でも諭してやることに消極的であるということは合点がいかなかったりはします。
個々人が立派な人間になることを目指すことをせずに「いい国」をつくる道なんてありゃしないのですから。
>いつも思うのですが「健全な愛国心」とはどのようなものなのでしょうか?
あー日本に限定して言えば
中国大使館を爆破すると匿名掲示板に落書きしたり
新聞社に弾丸送りつけたり
ライフルとパイナップル抱えて尖閣諸島へ乗り込んだり
・・・することでは無いって事は確かだよねw
Rédigé par : ヤク中自衛官 | dimanche 02 octobre 2005 à 01:17
>他人の誇りを貶めたからといって自分に誇るものが何もないことが正当化されるわけではないのですから。
いいえ。
差別主義者であることが露呈した書き手にとっては、他の人の心情を逆なでしたり、愛国者であることを醜悪だと貶め罵ることで自尊心を満足させることができるのです。
一連のエントリを見れば一目瞭然でしょう。まさに醜悪です。
Rédigé par : 金田真一 | samedi 01 octobre 2005 à 18:27
御自分の、どのような点を誇りに思っているのか上手に説明してほしいということについて、説明がなかったようです。他人の誇りについて難癖を付ける暇があったら誇るに値することをしましょうよ。
自分に誇るものが何もないからといって他人の誇りを侮蔑するのは醜悪です。他人の誇りを貶めたからといって自分に誇るものが何もないことが正当化されるわけではないのですから。
Rédigé par : 平田 | samedi 01 octobre 2005 à 17:13
わざわざ新しくエントリ上げてまで印象操作しなくていいですから、コメントに答えて欲しいな。
Rédigé par : 金田真一 | samedi 01 octobre 2005 à 16:29
いつも思うのですが「健全な愛国心」とはどのようなものなのでしょうか?
Rédigé par : ゆーき | samedi 01 octobre 2005 à 11:40
政治家・官僚・実業家・法曹・医者・技術者。
そうしたいわゆる「エリート」が健全な愛国心を持ち、たとえば、順法・納税意識などがあるかどうか、が非常に大事だと思います。彼らが正しければ国家はほぼまともになり、それがおかしければ国家はほぼおかしくなります。
小倉先生は、ですからわが国のトップエリートの一人として健やかなる愛国心をもつべし、と私は願います。
国民中流の平均、あるいは先生より「はるかにレベルが低い人々?」を批判するあまり、先生自身までもが愛国心を失う必要はないように思うのですが・・・
Rédigé par : 中井亀之助 | samedi 01 octobre 2005 à 02:00
私と他者を比較する必要も、誰かより優れる必要もないんですよね。一番になれなくてもいい。唯一の自分を誇ればいい。そういう意味でなら、自分を構成する要素、日本人であることも、男(女)に生まれたことも、今の仕事も、そういった全てを誇っていい。そんな気がします。
(えー、本当は引用したい一節があるんです。でもここには弁護士さんがおいでですし。JASRACはウォルト・ディズニー・カンパニーの次くらいにこわいですし)
Rédigé par : Мышкин | samedi 01 octobre 2005 à 00:47
> このポイント、放っておくのも気持ち悪いけど追求するのも面倒くさいんですが、どうしたらよいでしょうか?
それはつまり「問うに落ちず語るに落ち」ているということだと思いますが、そういう意味では今までも散々落ちまくっているので追求するのは可哀相かなという気がします。
Rédigé par : 平田 | vendredi 30 septembre 2005 à 23:32
>人間が清潔で、それなりの文化水準、お洒落さ、
>器用さ、明るさ、流行やブランド・新製品を作り出す発明の才、
>鋭敏な感覚、知識吸収欲求を有している人がそのような属性を
>有する自分を誇りに思うというのは理解が可能なのですが、
独自の文化を持つ日本に生まれたことに誇りを持つのに、他者との比較なんぞ必要ないですよ。結局、小倉先生自身が「他者との比較による優越感によってしか『誇り』を持てない」という、偏狭かつ醜悪な価値観しか持っていないから、他者比較に基づく「誇り」しか理解できないのですよ。
ずいぶん偏狭な視野だことで。
Rédigé par : こりき | vendredi 30 septembre 2005 à 23:28
あのー・・・
> ──日本国籍を有する人という意味で用いた場合には──日本国籍を有しているという以上の共通点はないのであり、
そういう場合をチョイスしているならそうなるしそうとしかならないのは当たり前では。
まあ国籍法が平等に作られていることの証左ですね。
それともう一つ、こっちの方が重要なんですが、「日本国籍を有する人という意味で用いた場合には」とサラッと言ってしまってますが、それはつまり小倉さんが、
・「日本国籍を有する人という意味で用いた場合」以外の『場合』が存在するとわかっている
&
・そっちの『場合』をチョイスする、あるいは含めると、以降の自分のロジックは成立しなくなるとわかっている
ってことなんですよね・・・。
このポイント、放っておくのも気持ち悪いけど追求するのも面倒くさいんですが、どうしたらよいでしょうか?
Rédigé par : irose | vendredi 30 septembre 2005 à 22:51
すいません、質問の仕方が悪かったようですので訊き直します。
貴方は自分を「誇り」に思っていますか?もし思っているなら正しい「誇り」の例として
『どのような点を誇りに思っているのか上手に説明』してみていただけますか?思ってないなら答えようがないので仕方ないですが。
それから嫌味でなく
『個々人が立派な人間になることを目指す』程度のことで「いい国」が作れるという子供のように純粋な考えを持っている大人がいることを日本人として誇りに思います。
Rédigé par : 平田 | vendredi 30 septembre 2005 à 21:35
ふと思ったのですが、小倉秀夫的には建国記念日を祝うなんてとんでもないことなんでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
日本国では建国記念日は「国を愛する心を養う」といった意味があります。そんな祝日、小倉秀夫的には許せませんよね?そもそも紀元節を祝うなんて狂気の沙汰ですよね?
同じ理由で「海の日」もアウトですね。国の発展を願うなんて。
文化的に誇ることもできないなら、「文化の日」もアウトなんでしょうかね?
「秋分の日」に日本人がルーツとなる祖先を敬愛し、亡くなった方々を偲ぶなんてのは最悪ですよね?
天皇誕生日なんてどうしたらいいんでしょうね?世界で類を見ないまさに万世一系の王家を抱くなんて、誇りでもなんでもないことですよね?
http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html
すごいなあ。世界中の「母国を愛する人」はレイシストなんだ。ふーん。
あれ?韓国や中国、北朝鮮も建国記念日を祝っていますね。
そういえば民族の誇りを維持するために日本国内には民族学校がありますが、小倉秀夫的にはあんなもの許せませんよねえ。
当然、民族衣装なんてもってのほか。
あれれ?小倉秀夫はチョゴリ着てる人は敵ですか?
せっかく同じ街に住んでいても、他民族が誇り高く生きていたら彼らを醜悪な差別主義者として断じてしまうんですからねえ。
自分たちの国や民族を誇りに思えない人は他国や多民族の誇りを大切にできませんからね。
さすがレイシストです。誇り高き人々を醜悪な差別主義者とレーティングできるんですから。
Rédigé par : 金田真一 | vendredi 30 septembre 2005 à 17:00
>この世に生を受けたと言うこと
親から生まれたと言うこと
名前を付けたもらったこと
というのは日本人であるか否かとは全く関係がない事象です(別に、アメリカ人は親から生まれないとか、カナダ人は名前を付けてもらえないとかそういうことはないのではないかと思いますし。)
ですから、誇りや常識といったものは、世界中で共通しているのです。
日本人の誇りはアメリカ人やカナダ人にも理解できますし、その逆もしかりです。
>そのような属性を有する自分を誇りに思うというのは理解が可能なのですが、
>「日本人」という集団の一員であるというだけで、そのことを、そのような属性を有しているかに関わらず、誇りにしてしまうというのは正しくないのではないかという風に思うのです。
日本人に生まれ、生きているということだけで親を喜ばせ、社会になんらかの貢献をしているのですから、日本人として誇りを持つのは正しいと思います。
Rédigé par : むにゅう! | vendredi 30 septembre 2005 à 13:40
今、そういえば小倉秀夫はねぶた祭りの伝統が盗まれそうだということが明らかになっているときにどう反応したか思い出していました。
確かに、日本の伝統や歴史を誇りに思えないのだから、あの反応を起こすのも因果でしょう。
あるいは「そう簡単に盗めるものではない」というねぶた関係者の自信や楽観でしょうか?いえいえ、ねぶた関係者であっても小倉弁護士の弁によればそれは誇れるものではないはずです。ねぶたに参加している程度ではなく、突出した作り手でなければならないのですから。
#それでも「自分を誉める」程度のようですがね
日本人には何ら胸をはれるものが無いとでも言いたげなレイシストの言葉は、実体と乖離しているものなのですね。
>誇りを持とうとすると弾圧されるのは、彼らに誇りを持たれると困る誰かがいるからなのは皆さんご存知ですよね。
一応、知っているつもりです。
たとえば中国によるチベットの「民族浄化」ですが、小倉弁護士の言うように名付け親程度で誇りを持つかどうか決まるならいちいち民族の血を薄めたり文化を破壊したりしなくても済むわけです。
かつての帝国主義国家の大部分(≒キリスト教圏)が植民地を拡大した際に各地の文化や宗教を圧迫し、キリスト教に改宗させようとしたのも同じですね。
例外的にいわゆる創始改名のように許可されたとたん殺到した例もありますが、大部分は「被征服地の誇りを奪う」ことで反乱を防ぐ意味合いがあったと言えそうです。
そういえば領土問題で紛争中の反日国家や、日本に向けて百以上のミサイルを準備している反日国家がありますね。文化的交流や経済的交流は盛んになっているといいますが、その実態はどんなもんでしょう。
「民間防衛」、近くの書店にみつからないのですが、なんとか入手して精読したいところです。
#オンラインショッピングはどうも苦手で。
Rédigé par : 金田真一 | vendredi 30 septembre 2005 à 13:06
小倉センセイへ
>戊辰戦争って結構大変な内戦だったと思うのですけどね。
内戦ですが、国を守るための方法論のぶつかり合いの結果であって”市民階級が被害にあっていない”。欧州での王国軍VS市民階級でないのが重要ですが何か?歴史の勉強もしましょうね。
再度聞きますが、誇りを持とうとすると弾圧される人たちに対してはどう考えていますか?
以下>>ALL
誇りを持とうとすると弾圧されるのは、彼らに誇りを持たれると困る誰かがいるからなのは皆さんご存知ですよね。
Rédigé par : sakimi | vendredi 30 septembre 2005 à 11:30
すいません。訂正します。
「○○障碍者でも誇り高く生きている例」は挙げてませんでした。
昨日コメント書いてるとき削除した部分でした。勘違いしてたので、この部分は訂正させていただきます。
Rédigé par : 金田真一 | vendredi 30 septembre 2005 à 11:24
>それはともかく、人間が清潔で、それなりの文化水準、お洒落さ、器用さ、明るさ、流行やブランド・新製品を作り出す発明の才、鋭敏な感覚、知識吸収欲求を有している人がそのような属性を有する自分を誇りに思うというのは理解が可能なのですが
極めて危険な差別思想ですね。
人間が清潔であったとしても、「それなりの文化水準」を満たしていないとして征服を試みたかつてのキリスト教徒は黒人を奴隷化しました。
お洒落さに至ってはまさに主観でありますね。ある民族衣装を「お洒落でない」として誇りを奪うことは許されません。
器用さや明るさにしても同じで、不器用であっても誇り高い人はいるわけですよ。流行やブランド、新製品を生み出す事が誇りとなるのであれば、生前評価されなかった様々な芸術家は「己の能力を誇る」ことを許されなかったわけでしょうかね。だとすれば、己の芸術を誇れない芸術家が大勢するには単に技術の問題となり、テーマの選択や表現に込めた思想などは無関係といえそうです。芸術を文化の一部と考えれば、小倉秀夫は文化の担い手はその時に評価されなくてはならず突出した芸術家や文学者、思想家等が死後再評価されようがその親族を含めてそれを誇りに思うことはありえないわけですね?
おかしは話だ、他者の評価を基準にして自分を誇れと?まるで「テストで100点を取った奴だけが偉い」というような単純化した図式に思えますね。
さらに。鋭敏な感覚だと?
俺が既に挙げた「視覚障碍者や聴覚障碍者でも誇り高く生きている人物がいる」のは認められないと。とんだ障碍者差別ですね。さすが醜悪なレイシスト。
耳が遠くなった、あるいは老眼や白内障に悩まされるようになったお年よりは最早誇れるものは過去の栄光だけですか?すごい言い分ですね。「今はもう役立たずの年寄り」とでも言いたげなその口ぶりに日本の将来が憂えて仕方ありません。サヨクってそんなのばっかりですか?本来は新しい風を入れて国をよくしようというのが改革派の思想だったのに、いつからそんな超個人主義で社会的連結を解体したがるような思想のサヨクに傾いたんでしょうね。
左傾化ではなく、もうひっくりかえってますよ。小倉くん。
木を見て森を見ず。今の小倉君はそういう状態でしかないね。
Rédigé par : 金田真一 | vendredi 30 septembre 2005 à 11:19
「日本人」であることを誇りに思う事が排他的なのは避けようがありませんよね。まあ民族属性を強調する限り仕方が無いことだと思います。特に、ネットやメディアなどでことさら強言している人々の指向は、ほぼショービニスム指向と被りますし。が、誇りを持つこと自体が醜悪な差別主義かどうかは一概に言えないのではないかと。少し説明不足ではないでしょうか。何をもって誇りとするかによって違ってくると思います。例えば、形骸的ながらも平和憲法を持ってる事は誇れるのではないでしょうか。オリエント、しかも極東に位置し、何百年もの間、野蛮かつ残虐な民族心性・封建的な文明をつい最近まで持っていた島国が、僅かの間であれ平和な期間を持ちえたというのはまさしく誇りですね。強制を余儀なくされた面はあれど、自発的な面もありましたし。つい最近まで、世界的にも歴史的にも有数の平和民族だったではありませんか。残念ながら、戦後民主主義の失敗のせいか、一部の人々は啓蒙されないままのようですが。現実社会では、若い人の間で、差別的でない愛国・他民族との対話などが広まってると思いますよ。まあ、コメント欄集団放火以来のこの現状では小倉さんが、ネット上で建設的でない方向を打ち出されているのも仕方が無いことだとは思います。が、あまりにネガティブ集団への対応に終始して、いい方向に向かってないようですな。
Rédigé par : 日本村民 | vendredi 30 septembre 2005 à 04:01
ちと訂正。
「誇り」の意味を「他人を見下す材料」と定義するんじゃったら、小倉先生の言うてることは正しいやねぇ。
日本語として正しいかは知らへんけど。
小学校なんぞの運動会で、よく「正々堂々、誇りをもって」なんて言うてるけど、あれはお金も知識もないような同級生を見下せ、という意味じゃったんね。さすがは弁護士センセ、目からうろこやわ。
Rédigé par : 朱 苗牟 | vendredi 30 septembre 2005 à 02:36
>それはともかく、人間が清潔で、それなりの文化水準、お洒落さ、器用さ、明るさ、流行やブランド・新製品を作り出す発明の才、鋭敏な感覚、知識吸収欲求を有している人がそのような属性を有する自分を誇りに思うというのは理解が可能なのですが
これら全てから縁遠いと言わざるを得ない、遥かな僻地にいる少数民族の人が、しかしながら自分たちの民族を誇りに持つことは理解が不可能である、となりそうですね。
Rédigé par : Мышкин | vendredi 30 septembre 2005 à 02:35
(ここから引用)
それはともかく、人間が清潔で、それなりの文化水準、お洒落さ、器用さ、明るさ、流行やブランド・新製品を作り出す発明の才、鋭敏な感覚、知識吸収欲求を有している人がそのような属性を有する自分を誇りに思うというのは理解が可能なのですが、そのような属性を有している人が比較的多く存在する「日本人」という集団の一員であるというだけで、そのことを、そのような属性を有しているかに関わらず、誇りにしてしまうというのは正しくないのではないかという風に思うのです。
(ここまで引用)
‥‥なんでそんな発想になるんですかのぉ。
ちとステレオタイプな言い方をすれば「能」「歌舞伎」といった伝統芸能や、「華道」「茶道」といったもの、あるいは「畳のある部屋」等々、そういう「伝統」の影響を受けている生活ができる、言い替えればそういった文化の中に生きていることを「誇り」に思ってはいかんのですかのぉ?
あるいは言語としては他の国では全く使われていない、でも面白みのある(別に優秀だとか言うのではなく、色々な言葉遊びができるという意味で純粋に「面白い」)言語の担い手として、としての(そういう意識があるかどうかは別としても)日本人の誇り、というのを持ってはいけないんでしょうかねぇ?
小倉先生のいう、やれブランド、やれお洒落、だののほうが、「誇り」を持つ対象としては余程、小さいものだと思いますがー。
Rédigé par : 朱 苗牟 | vendredi 30 septembre 2005 à 02:33
呼び捨てにして、「お前」を連発することしか芸のない「立派な書き手」が登場か。
ここは一発芸人か「所詮」の開き直りしか出来ない奴のふきだまりかいな。
Rédigé par : また「一発芸人」か | vendredi 30 septembre 2005 à 02:33
愛国心、誇り・・・各自の様々想いと程度が有ると思いますが、人から強制されるものでは無く、自然と発生するものでは無いでしょうか。
誇りについては、各個人の基準値に差違が有り、簡単に誇りと思うと想う人も有るし、非常に厳しい基準を課せる人いると想います。
小倉先生は、後者に近い為、現在の日本の状況を悲観的に見た上での発言と、勝手に解釈しています。
「国旗」、「国歌」が教育の場でいろいろ言われていますが。正月、旗日(ちょっと古いか)自宅に国旗を掲揚して、子供に見せていますか?
自分と異なる意見を持つ者を「お前」呼ばわりする事が、誇るべき日本人の伝統なのでしょうか?
Rédigé par : 信 | vendredi 30 septembre 2005 à 02:14
> 個人的に、日本人が誇りに思う歴史のひとつは
>わが国がかつて流血革命を経ずして近代化に成功
>し、立憲君主制をかろうじて維持したことと思い
>ます。
戊辰戦争って結構大変な内戦だったと思うのですけどね。
あと、日本国憲法下においては主権が天皇に帰属するとした上でその行使が憲法=国民との約束で制限されているのではなくて、主権が国民にあり、国民の授権の元各統治機構が統治行為を行う構造になっているから、これを「立憲君主制」といってしまうのは抵抗があります(「立憲君主制」の定義を変えてしまえばそりゃ何だっていえますが。)。
それはともかく、人間が清潔で、それなりの文化水準、お洒落さ、器用さ、明るさ、流行やブランド・新製品を作り出す発明の才、鋭敏な感覚、知識吸収欲求を有している人がそのような属性を有する自分を誇りに思うというのは理解が可能なのですが、そのような属性を有している人が比較的多く存在する「日本人」という集団の一員であるというだけで、そのことを、そのような属性を有しているかに関わらず、誇りにしてしまうというのは正しくないのではないかという風に思うのです。
Rédigé par : 小倉秀夫 | vendredi 30 septembre 2005 à 02:07
個人的に、日本人が誇りに思う歴史のひとつはわが国がかつて流血革命を経ずして近代化に成功し、立憲君主制をかろうじて維持したことと思います。
また治安がよく、治水治山にすぐれ(ニューオリンズを見よ)、おおむね人間が清潔で、それなりの文化水準、お洒落さ、器用さ、明るさ、流行やブランド・新製品を作り出す発明の才、鋭敏な感覚、環境大国であること、知識吸収欲求ぐらいですかね。
それはたまたま日本のことですが、中国は中国の、韓国は韓国の、アメリカはアメリカの、ロシアはロシアのそれぞれまったく別個の愛国心がそれぞれあって当然だと思いますが。
Rédigé par : 中井亀之助 | vendredi 30 septembre 2005 à 01:42