「日本人であることを誇りに思う」人々が「日本人であること」のどういう側面に着目してそのことを誇りに思っているのかということについては、結局、要領を得た説明はなかったようです。「親から生まれたこと」や「名前を付けてもらったこと」などのような、「誰にでも当てはまること」で自己を肯定的に評価してしまうという精神もよく分からないのですが、そのような「誰にも当てはまること」を「日本人であること」の内実にしてしまうということもおよそ理解の範囲外です。自分を誇るのなら、誇るに値することをしましょうよ(平日の昼間から、匿名性の陰に隠れて他人や他国を攻撃する書き込みを何本もしてなんていないで。)。
なお、「日本人であることを誇りに思う」の否定は「日本人であることを誇りには思わない」であって、必ずしも「日本人であることを恥じる」ではない(「日本人である」ということを自己評価に結びつけないということも十分ありなのです。)のであって、そういう意味ではネットでよく見られる愛国・反日論争と似たような構造のコメントが少なくはなかったように思います。
私たちは、好きになっても魔法を見せることができない代わりに、「好き」と「嫌い」だけではなく、「特に好悪の感情を持たない」ということも良くあるわけで、国籍国について「特に好悪の感情を持たない」としたって何の不思議もないわけです。
むしろ、国家というものを「万人の万人対する闘争」を押さえ、人々の利害を調整するための一種の「道具」として捉える立場からすれば、何も「道具」を愛する必要はないし(まあ、多くの分野で本末転倒と言ってもよいほど「道具」を愛してしまう人々はいるのですけど。)、道具を偏愛できないのであれば道具を利用するなとか別の道具を使えと言われたって、本末を転倒していない人々は困ってしまいます。
中井さんが仰っている「健全な愛国心」というのはある種の「公共精神(public mind)」であって、必ずしも「国」ないし「国家」というものと結びつくものではないように思います。そしてそれは、前王朝の末期の政策の誤りや軍人の犯した過ちをスルーしなくとも十分にこれを持ちうるし、逆に、日本の過去の歴史を全肯定したからといって必ずしも醸成しうるものではないというべきでしょう(「新しい生物教科書を作る会」を創って「進化論偏向教育」を廃した「新しい生物教科書」を発行して、「人間は猿から進化したのではなくIDによって特別なものとしてつくられた高貴な存在なのだ」と教え込まないと、「公共精神」を醸成し得ないわけではないのと同様です。)。そういう意味では、「愛国心」に「健全な」という修飾語を付することによって、「愛国心」とは直接関係のない「公共精神」がさも「本来の愛国心」であるかのように表現してしまうというのはどうしたものだろうかという気がしてなりません(中井さんにそこまでの意図があったとはさすがに思いませんが。)。
>自分を誇るのなら、誇るに値することをしましょうよ
まずは他人の誇りを素直に認めましょうよ。
>およそ理解の範囲外です。
要するに、あなたの理解力と想像力が貧困だということです。
他人の持つ誇りがあなたの理解力を超えた概念であるから、理解できないのです。
>IDによって特別なものとしてつくられた高貴な存在なのだ」と教え込まないと
ID理論を理解していないようです。
生物のデザインを解析していくとそこに何らかの知性的な意図が見えるというのがID理論です。IDが生物を作ったということではありません。
Rédigé par : むにゅう! | vendredi 14 octobre 2005 à 01:02
そうそう、一つ尋ね忘れていました。
>(「新しい生物教科書を作る会」を創って「進化論偏向教育」を廃した「新しい生物教科書」を発行して、「人間は猿から進化したのではなくIDによって特別なものとしてつくられた高貴な存在なのだ」と教え込まないと、「公共精神」を醸成し得ないわけではないのと同様です。)。
これは、キリスト教徒の一部でIDによって生まれたと言う創造説を信じる人を見下しているのですか?
「新しい歴史教科書を作る会」を見下しているのですか?
意図を明確にしてください。文理解釈そのままであれば、小倉秀夫の差別主義を補強するものでしかありません。
韓国人の半数はクリスチャンです。クリスチャンを侮蔑しないでくださいませんか?
Rédigé par : 金田真一 | jeudi 06 octobre 2005 à 00:16
まとめ
事の発端はいつものように本人の鮮やかな誤読から始まった。
「ロンリープラネットの自由旅行ガイド ドイツ」の一節
『"ドイツ人であることを誇りに思う"と口にしようものなら疑惑の目が向けられる。』である。
ドイツの歴史から読み取ろうとすると深く考えさせられる意味だと思われるこの一節を、本人は轆轤首が油でも舐めるように薄く嘗め取り利用した。引用の後そのまま「とのことで、」と続け、まるで以下に述べる自分の考えがドイツでは常識であるように印象付けようとしたのだ。本人にすればこの誤読は無敵に思えたのだろう(いつもそう思っているみたいだが)、それ以下の内容は、「ドイツ人もドイツ人であることを誇りに思ってないのだから日本人も止めようね。」以上のことは何も書かれていないいつも通りの薄っぺらなものだった。当然のように反論され試みは失敗する。
誤読を見破られてしまったことに一週間後に気付いた本人はいつものように悪あがきを始める。「続・○○人であることを誇りに思う人々」という続編?で次のように吐き捨てる。
『お前らの誇りっていうのは、他人を貶めることによって嵩上げされたに過ぎない偽のお手軽な自尊心だろう。お国のために何の役にも立っていない役立たずは黙ってろよ」
しかし、「続」と表題を付けているにもかかわらずドイツには一言も触れていないことからも誤読をなかったことにしようとしている姿がうかがえる。実際、煽りにかかるような人は現れず試みは再び失敗する。
本人にとってはかなり恥かしかったのか『「いい国」つくる上での障害としての差別思想』という続編がさらに登場する。ここにおいて後世に残るかもしれない見事な論理が発表される。
『もちろん、「日本人」というのは──日本国籍を有する人という意味で用いた場合には──日本国籍を有しているという以上の共通点はない』である。一見無敵であるように思えるこの論理は、
『もちろん、「弁護士」というのは──司法試験に合格した人という意味で用いた場合には──司法試験に合格した以上の共通点はない』
『もちろん、「犬」というのは──畜生という意味で用いた場合には──畜生以上のなにものでもない』
『もちろん、「平田」というのは──馬鹿である人という意味で用いた場合には──馬鹿である人という以上の共通点はない』
など様々な応用が可能である。もし馬鹿ではない平田さんが反論しても「違う場合」だから答える必要がないという、いかにも反論されることが苦手な人が考えそうな論理である。しかし反論に関しては無敵に見えるこの論理もたった一言の素朴な質問の前には脆くも崩れ去った。曰く、
『違う場合って何?』
これは反論ではなく質問であるから答える必要がある(そしてこれこそがこの論理の見事なところである)が、その答えが反論になるという独りディベートごっこ状態となる。
実際、本人もその状態になり次のエントリ『「健全な愛国心」と「公共精神」』では、
>なお、「日本人であることを誇りに思う」の否定は(後略)
と独り論理遊びをやる羽目に陥ってしまい、
>必ずしも「国」ないし「国家」というものと結びつくものではないように思います。
と自ら反論してしまうというギャグをかましてしまう。
今後はこのような独り遊びのような議論が行われることがないように切に願いながら「誇り」に関するエントリの感想のまとめとしたいと思います。(本人逃げちゃったんだからしょうがないよね)
Rédigé par : 平田 | mercredi 05 octobre 2005 à 20:00
あくまでも、個人的意見ですが
>ご指摘の通り、言葉の揺らぎ・・・同じ日本人で言語が違うのではないかと・・
>身の回りで多くの事が気になります。
その辺は大昔から、最近の若い者は…ってのがあるわけで
自分も昔は言われていたし、いずれ言うことに成ると思っています。
>皆さんの発言に触発されて・・・
>日本人の良さ、美しさ、を強調されることに対して、壊されていく現状を見たときに違和感を感じたまでです。
でも、変わっていく中で残るものこそが文化ですから。それに違和感を感じたとしても、あなたには合わない文化だったってだけでしょう。
鉄な人間な私が客車が減っていくのを嘆いたところで、時代の趨勢には敵わないだけです。
>愛国心や、誇りを持たす教育制度以前に日常の家庭生活と、家族関係の再構築が出来なければ・・・
>家庭、家族を大事に思う心と実践が出来ない人が、飛び越えて、国家を愛せるか?
>どこかの首相のように・・・
侵略は文化破壊から始まります。日本の中にも他国の文化・思想に染まりきった人たちが国を売ろうとしてますし。
Rédigé par : sakimi | mardi 04 octobre 2005 à 23:15
たとえば、韓国籍または北朝鮮籍の方の少なくない割合が民族学校に通っています。彼らにとって母国は半島であり、そこでの文化や伝統を学ぶ事が、アイデンティティの根幹ともなっているのでしょう。
同じように日本人が日本人として日本を愛することが、どうして他国を貶める事になるんでしょう。
もちろん、父の国だから兄の国だから日本より偉い、なんてことが無いのと同じで、共産党政府樹立を支援したとか併合時に発展を支えたからといって日本が偉いわけでもありません。そういうことなんですよ。お互いがお互いの家族を愛するように、お互いがお互いの国を愛していることに何の罪もありません。
だからこそ、ことさら日本が近代において悪い事しかしてこなかったようなウソを教えてはいけないのです。自ら己を蔑む必要なんか、これっぽっちもないのです。
Rédigé par : 金田真一 | mardi 04 octobre 2005 à 17:39
真ちゃんさんも町や国、文化を深く愛しておられますね。
軽く考えているような、それこそそれらを含めてツールとしてしか考えていないなら、どうでもよいと感じても不思議はありませんから。
>ご指摘の通り、言葉の揺らぎ・・・同じ日本人で言語が違うのではないかと・・
若者コトバというやつでしょうか。私も気にはなります。しかし、彼らも意外と社会に出ればまっとうになっていきますし、そうでない子はやはり落ちぶれていきます。
私も手紙の書き方がなっていないと叱咤されることがありますが、ちゃんと言葉は揺らぎながらも生きていますよ。
>愛国心や、誇りを持たす教育制度以前に日常の家庭生活と、家族関係の再構築が出来なければ・・・
>家庭、家族を大事に思う心と実践が出来ない人が、飛び越えて、国家を愛せるか?
まさにその通りです。単にいきなり国を愛せよといったって心に響きません、良いものは良い、とひとつひとつ刻んでいくことで、良いものを残し、悪いものを改善し、やがてはよりよい社会、よりよい国をと考えられるようになるのです。
街を愛しているからこそ街をよくしようと思えます。
家族を愛しているからこそ家族のために苦労できるんです。
母の無償の愛は子を愛しているからでしょう。老いた両親を支える子は、両親を愛しているのでしょう。
同じように、国を愛していればこそ、国をよくしていこうと思えるのです。
昨今のサヨクのように、国のことを全く考えず、己の理想郷だけを追い求めていてはならないのです。
本来、左翼と呼ばれた改革派の人は、システムや法を積極的に改善したり、新しい風を入れて国をよくしようとしていた人たちです。対する右翼は、良いものを伸ばし、システムを堅牢なものにすることで国の良さを延ばそうとしていた人たちです。
いつのまにかプロ市民と呼ばれる活動家の多くが、国の発展ではなく己の夢ばかりを追うようになってしまったのは悲しい事です。
国や民族、町や家族、歴史や文化を愛する気持ちがあれば、他の誰かが同じように国や民族、町や家族、歴史や文化を愛する気持ちもわかるというものです。そのためにも、最終的には愛国心が必要となるでしょう。
もちろん、愛するに足る国であることが必要でしょうし(愛は強制できませんから)、偏愛やナショナリズムに陥らないようにしなければなりません。
だからこそ、国を恥よ、国を売れ、そんな教育には断固として抵抗しなければならないのです。少なくとも、ウソを教えたり、良いことをことさらに隠すようなことがあってはなりません。
生まれついての悪人がそうそういないように、振り返って悪と感じる事も、なぜ悪なのか、そのときはどうだったのか知ることは、まさに歴史を教訓とするためにも必要でしょう。
日本は本当はいい国なんですよ。そのことをちゃんと伝えることで、諦めたり、投げ出したり、どうでもいいやなんて考えてしまう子を救う事にも繋がりはしないでしょうか。そして、他の国々がそうであるように、国や地域を適切に認識する事で、一国二制度や主権の移譲といった間違った行為を未然に防ぐ事ができるでしょう。
Rédigé par : 金田真一 | mardi 04 octobre 2005 à 17:29
別に懐古主義ででも有りませんし、固守している訳でも有りません。
事更、食文化に思い入れが有る訳でも有りませんが。
ご指摘の通り、言葉の揺らぎ・・・同じ日本人で言語が違うのではないかと・・
身の回りで多くの事が気になります。
皆さんの発言に触発されて・・・
日本人の良さ、美しさ、を強調されることに対して、壊されていく現状を見たときに違和感を感じたまでです。
愛国心や、誇りを持たす教育制度以前に日常の家庭生活と、家族関係の再構築が出来なければ・・・
家庭、家族を大事に思う心と実践が出来ない人が、飛び越えて、国家を愛せるか?
どこかの首相のように・・・
*戦後生まれ、団塊の世代です。
Rédigé par : 信ちゃん | mardi 04 octobre 2005 à 15:41
まあまあ、sakimiさん。
信ちゃんさんはきっと我々以上に日本文化を愛しく思う人なのでしょう。だからこそ、古きよき日本の風景が失われつつあることを嘆いているのかもしれません。
父や母の世代、祖父や祖母の世代はもっと和の香りを強く感じていたことでしょう。
言葉の揺らぎを嘆く人がいるように、信ちゃんさんのように食文化の変遷を嘆く人がいても不思議はありません。
和食、おいしいですからね。家庭の味がレトルトに追いやられて、なくなっちゃうのは寂しいですから。
でも、信ちゃんさん。変化を受け入れられない誇りや愛は、偏愛であったり固執であったりすることもあります。保守的に過ぎることはあまりよくありませんよ。
今あるものを過去からの継続として素直に受け入れ、良いものは良い、正すべきは正すというのがあるべき姿だと思います。
なんでもかんでも伝統が良い、またはなんでもかんでも改革が良いなんてことはありません。
Rédigé par : 金田真一 | mardi 04 octobre 2005 à 01:17
>春には花見の順番とり、青いシートにゴミの山、アルミ缶のビールを飲み・・・
場所取り、ゴミの問題は江戸時代から在りますが何か?私が言いたいのは花見を楽しむ文化の方です
ビールも外国のビールをわざわざ選んで飲む人間がどれくらいいるのでしょう?
国によってはビールは全て輸入品なのはいう必要はありません
>夏には海外リゾートの海に生き、日本全国花火大会
意味不明です。海水浴を楽しむからこそ、海外にも行くそれだけでしょ。花火大会が全国どこででもあるのは日本の文化として花火が根付いている証左ですが?
>秋には、日帰り紅葉バスツアー・・・・
わずかでも季節の移ろいを感じようとしていますね
日本ならではの和も感じられます
>晩飯はコンビニ弁当とカップ味噌汁、おかずは電気で干した海外干物・・・
>レトルトカレーだったり、冷凍コロッケ”チン”・・・・
弁当だって、ご飯が入っていて箸で食べます。
カレーやコロッケを出したのは西洋のものを日本なりにアレンジしたものとして出しただけですが?
レンジでチンも、日本の様に各家庭に電子レンジがある国は多くないですよ?
>食中、食後TVに釘付け・・・
>全て、日本の歴史の連続の上に有りますね。
テレビを出したのはアニメを出したかったからだけで、食中にテレビを見てるのはテレビがあるところなのは普通ですが?
手塚治虫がいなければ日ではにアニメはここまで普及してません。
>食文化について、誇るべきものが破壊しつくされたと否定的に述べたつもりです。
>現在ある姿は似て非なるものです。
日本の食文化の根本で重要なのは、魚の食い方(生、焼く、炙って干す、煮て干す、塩水に漬けて干す、塩と一緒に漬け込む等々)とあらゆる物を醗酵させる。
この二つが無ければ日本の食文化はほとんど語れないぞ?他に重要なのが昆布だ。
これらを除いて和風の料理を作れと言われたらはっきり言って無理。
たとえばラーメンでも、出汁はトンコツ・トリガラの他に煮干や鰹節が入っているのが普通で昆布も当然入っている。タレの方も醤油や味噌を使わずに味を調えるのは非常に難しい。
>世界中進歩の中で古き良きものが失われ、変化していく事は致し方ないと思いますが、
>変化の度合いと、古いものの捨て方では世界で類を見ないと思っています。
実は日本文化ってのは古いものを捨ててないところが特徴なのだが?
問題としては古いものは需要が減るから高くなるだけで
たとえば日本刀だが、これは形を完全に変えて包丁になっていたりする。でも鍛冶はその技術をそのまま使って刀を打つことも可能だ。
>花鳥風月と季節の移ろいを愛でる、日本的心、・・・社会全体にそんな余裕が感じられません。
>古人の風流を、日本人として誇りに思うは否定しませんが、今生きる日本人との落差は・・・・
風鈴も紅葉も花見も無視ですか
Rédigé par : sakimi | mardi 04 octobre 2005 à 01:07
信ちゃんさん、そんなに悲観することはないかと思いますよ。
実際、お出汁を取るためのかつおぶしやいりこは大袋でいつでも購入できますし、味噌や醤油はパック売りになりましたが現役です。
レトルトに依存した家庭もあるでしょうが、単身者の私でさえたまにはかつおぶしでお出汁をとって煮物をしてみたりします。
イタリア料理がどんなに素晴らしい伝統をもっていても、マンマの手料理がみんなトマトを湯剥きするところからはじめるわけではなく、瓶詰めや缶詰のトマトを使うように、それぞれ合理化されているのです。
もちろん、洋食や中華の進出で、食卓はずいぶん変わりました。
戦後、アメリカを中心とした欧米文化が浸透し、戦前の日本文化がいくつも消滅の危機に晒されました。しかし、完全には消滅しなかったのです。
考えてもみてください。チベットでは中国の侵略による民族浄化で、文化も民族も消え去ろうとしています。比べられるものではありませんが、日本にはまだ残されています。そして、消そうとする外圧はありません。
かつて同じように文化の灯火を奪われかけた国として、チベットのために何かできたら、それは日本人の新たな誇りとなるかもしれません。
食文化は変遷しています。それまで手に入らなかった材料が手に入るようになり、諸外国の料理法が伝わりました。保存食が発達し、手軽においしい料理が食卓を飾ります。
でも、やっぱり今でも肉じゃがや煮付け、冬の食卓なら各地のお鍋、猟師町なら海産物料理、猟師町なら山の恵みと、それぞれの土地の食文化が残っています。
まだまだ日本は捨てたもんじゃありませんよ。
文字通り、「それを捨てるなんてとんでもない!」ってところです。
どことなく懐かしく思う日本の景色、日本の料理。それこそが日本の誇る文化の香りです。
信ちゃんさんは、お正月にお雑煮を頂きませんか?きっと、私の家に伝わるお雑煮とは違うものだと思います。それが、日本の文化の一翼なんですよ。
オモニのキムチも、各家庭で味が違います。国によってはスープであったり、パスタであったり、ハムであったり。そういったものも文化です。誇るべきものなのです。
どこにでもあるから見落としがちですが、そういったものを大事に慈しむ気持ちがあれば、きっと誇りを見つけることもできるでしょう。
Rédigé par : 金田真一 | mardi 04 octobre 2005 à 00:57
> Rédigé par: 信ちゃん | le 03/10/2005 à 23:59
> 花鳥風月と季節の移ろいを愛でる、日本的心、・・・社会全体にそんな余裕が感じられません。
> 古人の風流を、日本人として誇りに思うは否定しませんが、今生きる日本人との落差は・・・・
丁度いいからあなたにヒアリングするけど、
あなたが今使ってる「日本」「日本人」って、どう言う意味(用法の場合)?
やっぱり日本国籍とか、日本の領土範囲内っていう程度の意味?
Rédigé par : irose | mardi 04 octobre 2005 à 00:51
食文化について、誇るべきものが破壊しつくされたと否定的に述べたつもりです。
現在ある姿は似て非なるものです。
世界中進歩の中で古き良きものが失われ、変化していく事は致し方ないと思いますが、
変化の度合いと、古いものの捨て方では世界で類を見ないと思っています。
花鳥風月と季節の移ろいを愛でる、日本的心、・・・社会全体にそんな余裕が感じられません。
古人の風流を、日本人として誇りに思うは否定しませんが、今生きる日本人との落差は・・・・
Rédigé par : 信ちゃん | lundi 03 octobre 2005 à 23:59
iroseさん、レトルトはnasaかもしれませんが、フリーズドライは日本独自と聞きます。
干物や漬物など、日本は四季の移ろいの中、野菜や果物をいつでも食べられるよう工夫してきたようです。
日本の保存食は、これもまた誇り高き文化の一翼と言えそうですね。
キムチは日本からもたらされた唐辛子によって発展しましたが、様々な野菜や海産物に応用することで食文化の柱となりました。日本の味噌や醤油、納豆など大豆食品と同じく、韓国が誇る食文化の一つだと思いますよ。
Rédigé par : 金田真一 | lundi 03 octobre 2005 à 23:07
JSFさん、ありがとうございます。
さすが、私など足元にも及びません。あなた方のような広く深く鋭く切り込める知識のある方がおられることが、日本の誉れの一つでしょう。
私はどうも日本語がうまくないようで、どうしても言葉足らずに陥ってしまいがちです。JSFさんのようなお方がおられることが心強い。
さて、信ちゃんさん。ハンドルに愛称とでも言うべきものが含まれているので呼び方に悩みますが、信ちゃんさんでご容赦。
誇りとは、「良い面を受け入れ認め好む」ものではないでしょうか。
桜を愛でる感覚は日本のものでしょう。外交上いくつかの国に桜が植わっておりますが、文化的なものとして毎年桜を愛でるのはやはり日本独自の文化と思えます。
ゴミの山が築かれることは恥ずべきことですが、それはむしろ「桜を愛でるという文化」を美しく維持するためにゴミはちゃんと処分しようよ、と持っていくべきこと。
恥ずべきことがあるからといって誇ってはならないものではありません。
食文化が失われつつあり、レトルト食品に蹂躙されつつあるのは悲しいことです。しかし、それが和食の誉れを汚すものではありません。
各国でそれぞれの地に応じて発展してきたそれぞれの食文化は、それぞれ誇れるものであり、尊重されてしかるべきものです。
それこそ、ワールドカップで韓国の犬食が否定されたのは悲しいことでした。
中国では「机と椅子以外の四足は食う」と言います。それは悪食を示すものではなく、深い食文化と漢方に根ざした調理に基づく一つの誇るべき文化です。
それぞれの地域、国、民族に誇るべき文化があり、現代の合理化によってそれぞれ変化をもたらされています。
それは文化の変遷の一端であり、過去の誉れを否定するものではないのです。
韓国だってそうです。今では日本の文化を妬み、ねぶた祭りを筆頭に剣道や空手、茶道など様々な文化を韓国発祥と偽って自国の歴史を捏造していますが、韓国には誇るものがたくさんあるのです。世界的に認められ、最も優れた文字とされているハングルや、乳酸発酵により健康にもよくソウルフードとなったキムチなど、優れた文化がありながら、どういうわけか韓国人はそれを自国の誉れとしていません。
音楽や芸能にも優れていながら、どうして他国のものをコピーしようとするのでしょう。
誇り、誉れ。それは他人に押し付けるものでもなく、咎められるものでもないのです。
何を誇るかは全くの自由、何を愛するかも全くの自由。それを否定されなければ良いのです。
認め合い、尊重しあうために、お互いの誇れるもの愛するものを互いに認め合うことが必要なんじゃないでしょうか。
その第一歩として、己の所属する家族、町、国、文化、歴史を認め、誇り、愛することが必要だと思います。
それができれば、特定アジアの諍いも緩和されることでしょう。
Rédigé par : 金田真一 | lundi 03 octobre 2005 à 23:04
すごいよね、日本の食品保存技術。
# レトルトはNASAの技術だっけ? でもそれをカレーに流用して庶民向けに販売するって発想はすごいと思う。
Rédigé par : irose | lundi 03 octobre 2005 à 22:45
春には花見の順番とり、青いシートにゴミの山、アルミ缶のビールを飲み・・・
夏には海外リゾートの海に生き、日本全国花火大会
秋には、日帰り紅葉バスツアー・・・・
晩飯はコンビニ弁当とカップ味噌汁、おかずは電気で干した海外干物・・・
レトルトカレーだったり、冷凍コロッケ”チン”・・・・
食中、食後TVに釘付け・・・
全て、日本の歴史の連続の上に有りますね。
上記のものが文化として日本の誇れるものでしょうか
Rédigé par : 信ちゃん | lundi 03 octobre 2005 à 21:36
春には花見に行って、日本酒を飲み
夏は海に行ったり、花火を楽しみ
秋には紅葉、葡萄、栗、きのこを狩り
冬には雪と戯れる
晩飯でご飯と味噌汁、おかずが焼いた干物、刺身だったり
カレーだったりコロッケや豚カツだったり麻婆豆腐だったり
食後には漬物でお茶を飲みつつもテレビでアニメを見たり、本を読んだりする。
全て日本の歴史の連続の上にありますね。
ここで小倉先生に質問です。上記の物で文化として日本の誇れるものを除くと何が残りますか?
Rédigé par : sakimi | lundi 03 octobre 2005 à 20:55
>「日本であることを誇りに思ってはいけない」
>なんて教育を受けた記憶は個人的にはないですが…。
多くの人はあるのですよ。その昔、ある勢力が「国」という単位を超えて同志が連携しあって一大ムーブメントを起こそうとしました。
『世界同時共産主義革命』
これを達成する為に、彼らは革命すべき国において活動を開始したのです。
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国民をして戦うことを諦めさせれば、その抵抗を打ち破ることができる。軍は、飛行機、装甲車、訓練された軍隊を持っているが、こんなものは全て役に立たないということを、一国の国民に納得させることができれば、火器の試練を経ることなくして打ち破ることができる……。このことは、巧妙な宣伝の結果、可能となるのである。
敗北主義――それは猫なで声で最も崇高な感情に訴える。――諸民族の間の協力、世界平和への献身、愛のある秩序の確立、相互扶助――
戦争、破壊、殺戮の恐怖・・・・・・。そして、その結論は、時代遅れの軍事防衛は破棄しよう、ということになる。
新聞は崇高な人道的感情によって勇気づけられた記事を書きたてる。学校は、諸民族との間の友情の重んずべきことを教える。教会は、福音書の慈愛を説く。
この宣伝は、最も尊ぶべき心の動きをも利用して、最も陰険な意図のために役立たせる。
不意を打たれぬようにしよう。このような敵の欺瞞行為を暴く必要がある。
・スイス政府編集『民間防衛』より
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彼らは革命を夢見て、マスコミや教育機関を最優先目標として浸透潜入を図ったのです。同志を増やしつつ・・・
何かを誇りに思うように教育されるのは迷惑な話かもしれませんが、本当のことも教わらずに何かを自虐的に思うように教育されるのは、さらにもっと迷惑な話です。
・・・ソ連は滅び北朝鮮の拉致が発覚し、彼らの勢力は勢いを弱めている。しかし最優先に浸透を図っただけあって、未だにマスコミと教育界には相当数が巣喰っている。であるならば、スパイと裏切り者は排除されて当然ではありませんか?
教育基本法改正の真の目的とは其処にあると私は思う。「国に誇りを持たせる」という効果は副次的なものに過ぎないのでしょう。
Rédigé par : JSF | lundi 03 octobre 2005 à 20:11
ちなみに、「平家物語」は日本が誇る文学作品だと思っています。
皆さんにとっては、日本の誇りとはどういったものでしょうね。
Rédigé par : 森 | lundi 03 octobre 2005 à 19:49
「日本であることを誇りに思ってはいけない」なんて教育を受けた記憶は個人的にはないですが…。金田さんは、一部の極端な人達に影響を受けすぎてないですか?
誇りに思わしめるような教育されるのではなく、何かを教わり、理解することが教育の役割だと思っています。それを誇るかどうかは別問題でしょう。
何を誇りに思うかなんてのは個人の思想の範囲だ、って思ってます。
Rédigé par : 森 | lundi 03 octobre 2005 à 19:19
特定の何かを誇りに思ってはいけないと教育されている現状をどう思いますか?>森さん
どうして「日本人である」ことや「日本」を誇ると他国を貶める事になるんでしょう。
私には理解できません。もちろん、捏造を繰返してまで何かを誇れというのは論外ですが、事実は事実として教えればよいのです。そこに思想は不要なのです。
教育の場に思想は不要です。まずは、誇る誇らないを別にして、自虐史観は改めましょう。
「誇らない事」ときには「恥じる事」を強要するのは、「誇る事」を強要するのと同じくらい醜いことです。
事実を知り、その上で何を誇り何を恥じるかは、それぞれ各人の感覚や感性、考え方次第でしょう。朝日新聞みたいな遮蔽捏造体質や自虐史観を教育の場に持ち込むべきではありません。
私は適切に教育されていれば、母国を愛するってふつうだと思いますよ。いちばん身近な国ですし、日常的に接していますから。
家族を愛するのと同じようにね。
ただ、「お前の父親は人殺しだ」「お前の母親は淫売だ」と延々吹き込まれていたら、嫌いになるでしょうねえ。自虐史観やサヨク思想と同じようなものです。また、極右となって外国人排斥なんてやっちゃうのも馬鹿なこと。だからこそ、余計な思想を教育の場に持ち込むべきではないと思います。
Rédigé par : 金田真一 | lundi 03 octobre 2005 à 19:07
誇りというのは人から教わり、学ぶ感情だと思います。その対象が個人であったり家族であったり、地域や国、あるいは職業や趣味であったりすることだとは思いますが、いずれにせよ誇りを自ら持つ先人から学ぶ以外に、誇りのもちようはない、と個人的には考えるのですが・・・
誇りを持たない人から、無理無理教育されても、誇りが身につくことはないということも事実だと思います。
Rédigé par : 中井亀之助 | lundi 03 octobre 2005 à 19:01
それぞれの人が何かを誇りに思っているものがあるのは、大変結構なのですが、何かを誇りに思うように教育されるのは、かなり迷惑な話です。
Rédigé par : 森 | lundi 03 octobre 2005 à 18:34
誇りは、個人の精神的側面と、ある社会に帰属する事に起因するものと別物では無いでしょうか?
常に日本人あるいは、組織、社会を意識して生活しているわけでは無いので、個人の誇りが優先し、それを補完する形で後者が存在するのでは無いかと思います。
テーマとしてはもちろん後者をさしている訳でしょう。
この辺を混同して論議しても混乱するばかりではないかと思います。
「日本人としてのの誇り」を言うとすぐに「愛国心」に議論が進んでしまいますが、
他国の(多分にナショナリズムとしての)愛国心を事さら強調しても意味がないと思います。その国のおかれている状況や、歴史がそうさせているわけですから。
健全な愛国心・・・日本人として生まれて
良かったと自覚出来れば自然に愛国心は生まれますよね。
当然その逆もあり得ますが。
Rédigé par : 信ちゃん | lundi 03 octobre 2005 à 00:27
>産経新聞鵜呑みにするバカ。少しは批判精神持てよ。
朝日新聞は批判精神にあふれた素晴らしい新聞ですから、批判するためならさんご礁にKYと彫ったり、ありもしない田中知事とのインタビューをでっちあげたりしても平気ですね。
ところで、産経新聞に私が書いたような記事があったのでしょうか?寡聞にして知りませんので、該当日付とどこの版か、何面かお教えください。縮刷版を探してみます。
ところで、従軍慰安婦や百人切りを無批判に鵜呑みにしないでくださいね。朝日新聞を批判できますか?
>南京事件の証拠なんていっぱいあるだろ。
南京大虐殺と南京事件が別物であることは認識できていますか?
すでに40万人説すら登場してきている南京大虐殺は、南京地方全域で旧日本軍が侵略の際に略奪を企てたとするものです。南京大虐殺の被害者として中国側が挙げている数字は、南京城内の被害者だけではありません。
そして、「大虐殺」の証拠はありません。証言はいくつかあるようですが、現在証拠として挙げられている写真は全て南京への進軍前のものであることがわかっています。(しかも大部分は朝日グラフ出展だそうですねえ)
戦中、国民を鼓舞するために大本営発表をそのまま流したり、百人切りにしても逸話をそのまま掲載した、まさに戦争童話といったような物語をそのまま載せていたのが、毎日と朝日でした。
対して「南京事件」は、日本軍が南京城の攻略戦を行ったこととその前後の戦闘を指しています。これには確かに証拠があり、便衣兵として潜伏していた数万の兵士を探し出しています。陸戦規定で便衣兵つまり軍服を脱いだ兵士、要するにゲリラは正規の捕虜として扱うことが定義されていませんので、罪人として処刑されたようです。これは、当時合法でした。ただし、便衣兵と間違えられて殺害された市民がゼロであったとは考えられませんので、南京事件における被害者はどこかにいたはずです。というか、市街戦で市民の犠牲がゼロなんて考えられません。
ということで、私は南京大虐殺は南京事件をネタにしたプロパガンダだと思っていますが、南京事件は否定しません。南京爆撃を含めて、あの地域の戦史はちゃんと検証すべきです。
>まあ現実世界でも、どうせ自分が不幸なのは回りが悪い、自分は正しいって態度で周りの人間から冷ややかな視線を送られているんだろうけど。オマエが嫌う中国、韓国と同じ。同類嫌悪って事だね。
中韓を貶めるなよ。
韓国は国策で教育を間違ったが、中国はかなりしたたかに外交やってるぞ。
あと、ちゃんと読めてるか?
>「誇り」の対義語は「恥」ですので、日本人であることを誇りに思う、の反対表現は「恥に思う」
対義語を使って反対表現を書いただけだろ。で、おまいが言うのは【Not 「誇りに思う」の集合】であって、俺が書いた【「誇り」の対義語は「恥」ですので、日本人であることを誇りに思う、の反対表現は「恥に思う」】とは何ら関係が無い。
つまり俺が「右の対義語は左ですから、「右翼」の反対表現は「左翼」】と書いたのに対して「右ではないんだからノンポリも含むだろ」と言っている。論点が違う。
南京大虐殺と南京事件を取り違えたり、対義語と打ち消しを取り違えたり・・・
たいした論客ですね。
Rédigé par : 金田真一 | lundi 03 octobre 2005 à 00:06