「表現の匿名性」を保障するメリットがあるとすれば、それは「言いたいことが言いやすくなる」ということくらいしかないでしょう。
したがって、人々に「言いたいことを言わせない」ために「表現の匿名性」がしばしば悪用されている現状は、「表現の匿名性」を保障する趣旨からすれば、いわば本末転倒の状態にあるといえます。
松田勇治さんは、「表現の匿名性」が人々の言動を抑圧するために活用されることを積極的に評価されているようにも見えます。しかし、「祭る」ことで他人の言動を抑圧しようとする人々が匿名性の陰に隠れることによって社会規範から自由に振る舞えるという現状において、そこで行われる言動の抑圧が、現行の法規範のみならず、「社会の健全な常識」としばしば表現されるような現実社会に通用している社会規範からも乖離した形で行われ得ることになります。
そのような現状と、ネット上で表現活動を行う人々の匿名性を制限することにより「社会の健全な常識」に反した言動を行いにくいと彼らが感じるようになる状態を創出することとを比べた場合に、どちらがよりネット上での表現活動の豊かさを失わせるのかといえば、私は前者であるように思います。
現在の日本では、「社会の健全な常識」に反するとして社会的な制裁を受けることがないような言動を行うということはそれほど難しいことではありません。しかし、現在の日本のネット環境において、「匿名の卑怯者」たちの意に沿わない発言をしてコメント欄を荒らされないように自分のブログを維持し続けることはそれほど容易ではありません。他人のブログのコメント欄を荒らす人たちというのは、社会全体からは見たら本当にごくごく一部の存在にすぎなくとも、コメント欄を見るも無惨な状態にする程度に荒らすことは容易に可能ですし(「匿名の卑怯者」さんたちは、結果に責任を持たないことはもちろん、「ネット上での恥はかき捨て」的な要素があるので、他人のコメント欄を荒らすことに対する心理的な障壁は非常に低いですし、方法的にも、誰かがブログ主や部エントリーへの賛同者に言いがかりをつけ、他の人がその言いがかり的なコメントに賛同するコメントをつけるということをひたすら繰り返せばいいだけですから、暇が十分にあれば(しかも、賛同者が複数いれば、特定のブログを荒らすのにかける労力はそれだけ分散できます。)技術的には非常に容易です。)、そのようなごく一部の「ヘンな人たち」からも一切立腹されないようにして言論活動を行うということは、ある程度以上に「人に読まれる」文章を書こうと思ったら大変なことです。
もちろん、どんなに無体な言いがかりに対してもほいほいと屈服して謝罪と自己批判を繰り返すとか、戦後民主主義的な価値観を肯定的に評価するような発言を差し控えるとか、彼らが匿名性の陰に隠れることによって得た全能感に基づき好き放題のことをしている最中に水を差すような発言をしない等の注意を払えば、自分のブログのコメント欄が荒らされたりすることはある程度回避することができるとはいえるでしょう。しかし、現実社会での活動との連続性を保ちつつネット上での言論活動を行っている人々にとっては、そのような選択肢というのはなかなかとりにくいものです(そこまで品性を卑しくしてまでネット上で言論活動を行うメリットというのはありませんし。)。
松田さんが今後どういう結論につなげていくのかが楽しみです(匿名性の陰に隠れることで羞恥心を麻痺させており、かつ、特定のブログ主に粘着し続けられる程度に暇とエネルギーが余っている人々から反発を受けるような発言はネット上では避けるべきであるということに持って行くのでしょうか?)。
【今日聴いた曲の中でお勧めの一曲】
Elle me contrôle
by M.Pokora feat. Sweety