新聞記者が取材源についての法廷での証言を拒絶する権利を東京地裁が認めなかったことにつき、マスメディアがまた大騒ぎしているようです。
「取材源の秘匿が認められなければ、大本営発表しかできなくなる」云々という意見もあるようです。しかし、少なくとも連邦法レベルでは「取材源の秘匿」が権利として確立されておらず、取材源を秘匿すると法廷侮辱罪で記者が収監され得る(そして、実際に収監された例がある)米国において、大本営発表しかできなくなっているかというと、そんなことはありません。取材源に対して「取材源の秘匿」を約束してでも情報を引き出してこれを報じなければならないとなれば収監されてでもそうするのが米国の「記者魂」というものです。
これに対し、そこまでして報道しなければならない話題ではありません(所詮は、民間企業が所得隠しを行った云々というレベルの話です。)。「所得隠し」案件については、金額や手口の悪質性や容疑の確実性などを考慮した上で、国税庁ないし各国税局の責任において、これを公表するか否かを決定すればよいことです。これに対し、正式には公表しないことによって公表に関する責任を負うことを国税庁ないし各国税局が回避しつつ、非公式なルートでの「リーク」を特定の記者に対し行うことによって、「所得隠し」があったとの事実を世に広めていくということは、本来はあるべきではないことです。
今回の件で取材源が国政当局の人間だとするならば、読売新聞が行ったことは、この「本来あるべきではないこと」の片棒を担いだにすぎませんし、国家権力との関係でいえば、一種の無責任な「大本営発表」のお手伝いをしたにすぎません。権力の側から非公式にリークされた民間人(民間企業)に関するネガティブ情報を公開したことの責任を、情報をリークした権力側の人間もリークを受けて報道したマスメディアも負わずに済ますためのロジックとして「取材源秘匿の法理」を主張し、それが聞き入れられないとさぞ権力と対峙した報道ができなくなるかのように大騒ぎするのは実にみっともないということができます。
法理論的にいえば、「取材源の秘匿」というのは取材活動から当然に発生するマスメディアの権利ではなく、特定の取材源との間で締結される契約に基づくマスメディアの私法上の義務にすぎないのであって、それを民事訴訟法197条1項3号の「職業の秘密に関する事項」に含めてしまう下級審裁判例がそもそもおかしいのではないかという気がします。
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