サッカーのワールドカップも前半が終了しました。
日本の代表チームがグループリーグを突破できなかった「戦犯捜し」「戦犯叩き」に熱心な人と、これから始まる頂上決戦でのスーパープレイの連続に心躍らせる人。その人の生き様や人格の如何がそういったところに現れるのかもしれません。
高原選手のブログにコメントスクラムをかける暇があったら、ゲームを見ればいいのに。
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サッカーのワールドカップも前半が終了しました。
日本の代表チームがグループリーグを突破できなかった「戦犯捜し」「戦犯叩き」に熱心な人と、これから始まる頂上決戦でのスーパープレイの連続に心躍らせる人。その人の生き様や人格の如何がそういったところに現れるのかもしれません。
高原選手のブログにコメントスクラムをかける暇があったら、ゲームを見ればいいのに。
vendredi 30 juin 2006 dans Current Affairs | Lien permanent | Commentaires (0) | TrackBack (0)
第1回口頭弁論期日終了後相手方代理人と名刺交換をした際に、相手方代理人に「お互い主張書面のデジタルデータも交換し合いましょう」と申し向けて、あっさり断られると結構げんなりします。
相手方当事者の主張について認否・反論を行う際に、該当部分をコピー&ペーストした方が、一から入力するよりお互い楽だと思うのですが。そんなところで相手方代理人に手間をとらせたところで、大した意味はないのですし。
mardi 27 juin 2006 dans Loi | Lien permanent | Commentaires (17) | TrackBack (0)
某雑誌から単発の原稿を依頼されたので、「コメントスクラム」「粘着君」などのテクニカルタームに加えて、「ネットイナゴ」というテクニカルタームも使ってみました。
ひょっとして、「ネットイナゴ」という言葉が使われるのは、紙メディアでは初めてでしょうか?
lundi 26 juin 2006 dans Weblogs | Lien permanent | Commentaires (2) | TrackBack (0)
参議院総務委員会での柏村武昭議員(自民党)の質疑が一部で話題となっています。
例えば、
ある有名なソプラノ歌手が君が代を独唱いたしました。そのとき、民間放送の各局は、翻々と翻る日の丸、あるいは一生懸命観客席で歌っている皆さんの顔、青空、そういったものを映しておりました。NHKはその君が代をバックに何を映していたかというと、何と馬のしりを映しておりました。これは私はびっくりしまして、すぐに決算委員会で質問をしました。そうすると、皆さんの答えは、帰って検討してお答えをいたします。次の日にいらっしゃいました。あれはたまたまそういう絵を撮っておりまして意図的なものではありません、委員の指摘は大変遺憾であります。遺憾なのは私であります。やっぱりこれは、ソプラノ歌手が堂々と君が代を歌っているんであれば、やっぱりどういう顔をして皆さんが一緒に観客席で歌っているか、日の丸が青空に翻る絵がどんなに美しいか、そういったことをやっぱり気にしなきゃいけないんじゃないですか。
それで、私は次の年の日本ダービーも見ていました。何とこそくなことに、この開会式の、次の年は、君が代の斉唱を外して映しておりました。それをBGMに馬の調子はどうか、そういったことばかりやっておりました。どういう根性なのか、私はあきれ返りましたけれども。
と柏村議員は憤慨されているようです。
しかし、日本ダービーの生中継をTVで視聴している人の多くは、ソプラノ歌手が堂々と君が代を歌っている場合の観客席で君が代を歌っている観客の顔つきや、青空に翻る日の丸の絵よりも、これから走らんとする出走馬の状態や最近の調子などの情報により高い価値をおいているのであり、NHKが視聴者がより欲する情報を優先的に放送するのは当然ではないかと考えてしまいます。と考えるのが通常ではないかと私などは考えてしまいます。「民間放送の各局は」といわれてもG1レースを生中継するのは、東京でいうと、NHKとフジテレビくらいなので、きっとフジテレビ系列1社のことをいっているのではないかと思うのですが、フジテレビ系列の競馬中継ってゲストによる君が代の斉唱のときにそのゲストが「堂々と君が代を歌っているんであれば、やっぱりどういう顔をして皆さんが一緒に観客席で歌っているか、日の丸が青空に翻る絵がどんなに美しいか、そういったことをやっぱり気にし」て中継しているかっていうとそういう印象ってあまりないです。「愛国者」の方々って競馬中継を見る際に、出走馬の状態とか調子とかではなくて、そういうところに着目してTVを見ているのでしょうか。
柏村議員は、花岡さんのブログのコメント欄を炎上させた方々と同じようなこともいっています。
ついこの前まで日本じゅうが熱狂したトリノ・オリンピックを覚えていらっしゃると思うんですが、荒川静香選手の演技には感動いたしました。見事な金メダルを取ったわけでありますが、荒川選手が金メダルを取ったときに、彼女は感激の余り日章旗を体に巻き付けてリンクの中をウイニングランをしたわけですね。そのときにNHKの見ていた人は、あれっ、突然VTRに切り替わったというふうなことで、恐らく抗議がたくさん来たと思うんですね。
私はこれは意図的にやられたのかなと思っていろいろ調べてみたら、これは後で聞くと、どうせ説明されるから言いますけれども、国際放送に任しているんでスイッチングがそうなった、だから仕方がなかったんだと。民放は堂々と生で流しているわけですから、これはもう非常に対比がはっきりと出たわけですね。じゃ、VTRが流れたんなら、その後、ラジオみたいに、今リンク上では荒川選手が感動の余りウイニングランを日章旗を持ってやりましたという実況放送をしたってよかったんです。そういうこともしないで、これは国際放送に任していますからという。そのときに私は、これが初めてであれば、ああ、そうなのかと思ったんでしょうが、またやったかというふうな気持ちがあったんですね。
私はこのとき生中継を見ていなかったので、柏村議員が「今リンク上では荒川選手が感動の余りウイニングランを日章旗を持ってやりましたという実況放送をしたってよかった」と考えた時間帯にそのような実況放送をせずにどんな実況放送をしていたのかを知らないのですが、国際映像によって選手の演技のハイライトが映し出されているのであれば、その映像に関するコメントをアナウンサーないし解説者がつけるというのは自然な行動であり、多くの視聴者の期待にも応えるものなのではないかと思うのです。
別に、個人の趣味嗜好として「日の丸・君が代フェチ」がいたって構わないと思うのですが、日の丸や君が代が他の日本国民に如何に尊重されているのかということを知ることを何よりの楽しみにしている人というのは一般的には珍しい人の部類に属するのですから、NHKがその種の情報にプライオリティを置かなかったというのは「皆様のNHK」としては当然のことであって、そういう事実を列挙して「NHKの国歌・国旗に対する考え方」を示したような気になってもらっても困るなあというのは正直なところです。いや、ネット右翼さんたちなら「ああ、また、しょうがない人たちだなあ」と思うだけでよいのでしょうが、柏村さんの場合、れっきとした参議院議員なのですから。
まあ、現役の国会議員が、国旗国歌法を読んだ上で「やっぱり、国歌・国旗はもう法律までなっているわけですからね。法律までなってて、国の誇りですよ、旗も歌も。そうすると、やっぱりそれを助長するような責務があるんじゃないんでしょうかね」なんて言ってしまうあたりが世も末状態ではないかとは思うのですが(「国旗及び国歌に関する法律」は、国旗や国歌を「国の誇り」とすべきかについては何らの定めも置いていないし、NHKに対して「国旗や国歌を「国の誇り」とする」ような風潮を助長する責任を負わせる旨の規定も置いていないことは明らかだと思うのですが。)。
dimanche 25 juin 2006 dans Weblogs | Lien permanent | Commentaires (12) | TrackBack (1)
コメントスクラムが問題となる場合、「確かにレベルの低いコメントや単なる罵倒などもあるけれども、中には質の高いコメントや批判もあるから、そういうものを選んで応答すればいい」というような言い方がなされることがあります。
そうはいってみても、実際のコメントスクラム現象を見ていると、少なくともコメントスクラム化してからスクラム側でなされたコメントや批判の中に質の高いものが含まれていることは稀です。といいますか、コメントスクラムを担う側としても、既存のコメントではブログ主の発言に対する批判としては弱いと思うからこそ、さらなるコメントを投稿するわけでしょう(むしろ、既存のコメントがブログ主の発言に対する批判として的を射ていることが明らかな場合、同方向の批判コメントをさらに積み重ねてコメントスクラム化させることにより、上記「的を射た」コメントが埋もれてしまいますし、当該コメントにブログ主が答えなくとも仕方がないという雰囲気が醸成されてしまいますから、それは不合理な行動であるといえます。)。逆にいうと、自分の批判コメントのあとに自分の批判コメントと同方向の批判方向が延々と続くということは、それらの後続コメントの投稿者からみても、自分の批判コメントではブログ主をやり込めることはできないと思われている可能性が高度にあります。
あと、ブログ主が「少しはましなコメント」に答えたときに、揚げ足取り的なコメントや人格非難の意味しかないコメント等が複数投稿される場合がしばしばあります。これは、ブログ主の回答が的を射たものであり、このまま手をこまねいていたのではブログ主をやり込めることはできないという危機感の表れということができるでしょう。ブログ主の回答よりも元コメントの方が説得的である場合には、そのような揚げ足取り的なコメントや人格非難の意味しかないコメント等は全く不要ですし、折角自分たちにとって好ましいやりとりを、くだらないコメントの固まりの中に埋もれさせてしまうという意味で却って有害ですから、まともな戦略眼を持っている人々であればそのようなことはしないのではないかと思われます。
samedi 24 juin 2006 dans Weblogs | Lien permanent | Commentaires (5) | TrackBack (0)
コメントスクラム等を論ずると、「理詰めならいいのか」と繰り返し言ってくる方がいます。
これに対しては、この方の仰っている「理詰めのコメント」というのが今ひとつイメージとして涌かないので、何とも答えようがありません。というのも「理詰め」というのは、対話の一方当事者によるその独自の「理」の他方当事者に対する押しつけにすぎない場合や、単なる揚げ足取りによる、他方当事者の言説の撤回・変更の押しつけにすぎない場合が多々あるからです(「理詰めの取調べ」がしばしば「自白の任意性を疑わせるもの」の一つとして意識されるのは、そのためです。)。
さらにいうと、「理詰めの議論」というのが意味を持つのは、「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境がある場合(例えば、被疑者が取り調べをうけている状態や、証人が尋問を受けている状態等)に限られるのであって、「理論的に追いつめられた場合以外であっても、きちんとした反論をしなくなる十分に合理的な事情がある場合」には、やっている本人とそのお仲間だけが「理詰めの議論で相手を追いつめている」と勘違いしているにすぎない場合が往々にしてあるので、いかがなものかなあと思うのです。
ブログのコメント欄についていうと、一つのエントリーに付いたコメントに対してブログ主が応答する気になる量というのは、ブログ主の性格や多忙さ、或いは当該エントリーの性質によって差異はあるにせよ、自ずと限界があるし、ブログ主に対して「理詰めで追及してやろう」と主観的に思っている人たちはブログ主に対して無駄に戦闘的なのでそういう人を相手にするために時間を使うのはブログ主としては大して楽しいことではないので、しつこいコメンテーターとの「議論」を一方的に打ち切るというのは合理的な判断であり(実際、あとでイチャモンに繋げる気ありありの伏線的な「質問」にわざわざ貴重な余暇時間・休憩時間を使って答えてあげようという動機ってブログ主側にはなかなか涌いてこないものですし。)、したがってコメント欄というのは「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境とは言えなさそうです。
他人のブログのコメント欄に「理詰め」の議論を仕掛けるべく、伏線的な質問からはいるとかそういうくだらないことに頭を使う暇があったら、そのエントリーの主題についてより説得的な議論を自分のブログのエントリーに掲載する方がはるかに生産的だと思います。
vendredi 23 juin 2006 dans Weblogs | Lien permanent | Commentaires (6) | TrackBack (0)
ある言葉の意味範囲を独自に設定した上で、その言葉を用いた他者の発言の「論理矛盾」を指摘する手法というのは、ある意味最強ですね。これに対する反論は、「その言葉はそのような意味範囲では用いられていない」ということをいわないといけないのですが、厳密にそれを立証するとなると、その言葉の用例を調べ上げなければならず、趣味でブログを開設しているに過ぎない人間としてはそこまで手間をかけていられないということになりますから。
もちろん、「ある言葉の意味範囲を独自に設定した上で、その言葉を用いた他者の発言の「論理矛盾」を指摘する手法」を採用して相手の非論理性を指摘したとしても、その相手に対してネガティブな感情を抱いている人々が尻馬に乗ってくることはあっても、まともな人からはせいぜい気味悪がられるだけのことなので、大した生産性のある話ではないのですが、所詮粘着君はまともな人からはせいぜい気味悪がられるだけの非生産的なことに青春の貴重な時間を浪費するのが好きな方々なので、そういうことを言ってみても詮無きことかなあという気がしなくはありません。
それに、そういう人たちって大抵匿名なので、ネット上で気味悪がられても、とりあえず現実社会での評価にはマイナスには影響しませんしね。非生産的なことに青春の貴重な時間を浪費しているので、現実社会での評価を高める機会をその分失っているとはいえるわけですが。)。
そういう意味では、「匿名ではないと言えないこと」はあるのでしょうね。それが、被害者の泣き寝入りの機会を増やしてまで保護すべきことかどうかはともかくとして。
dimanche 18 juin 2006 dans Weblogs | Lien permanent | Commentaires (7) | TrackBack (0)
東京高裁が情報源に関する証言拒絶権を認めたそうです。
まだ高裁段階なので最終的な判断がどうなるのかはわからないのですが、これが判例として確立した場合、公務員は職務上知り得た情報をマスメディアに提供する分には、守秘義務違反に事実上問われなくなるということで、「マスメディアへの情報提供」は「公務員の守秘義務」についての事実上の例外となるということになりそうです。
「情報源の秘匿」が、マスメディアが公務員の不正を監視するために用いられるのではなく、マスメディアが私人を攻撃する際にマスメディアに協力して違法に情報の横流しをした公務員を庇うために用いられ、それに裁判所がお墨付きを与えてしまうあたり、日本的だなあと思ってしまいます。
落合先生は地裁決定を問題視されているようですが、官庁等に把握されている個人情報が適切に管理される可能性を弱めるものとして、高裁決定の方が問題が多いように私は思いました。
jeudi 15 juin 2006 dans Loi | Lien permanent | Commentaires (2) | TrackBack (0)
「歴史の教訓を未来に活かす」ためには、歴史的な事象を「現代の倫理で解釈して」教えることも歴史の授業としては有益なのではないかとは思いますし、現代人が歴史的な事象を目の前にして「現代の倫理で解釈」することから完全に逃れることなどできないと思うので、歴史の授業において「現代の倫理で解釈して」教えることをそんなに否定しても仕方ないのではないかと思ったりはします。
歴史の授業において「現代の倫理で解釈して」教えることを批判する見解を披露される方々は、日本の、昭和初期の歴史を対象として想定している場合が多そうなのですが、歴史の授業で取り扱うのは、人類誕生以来の、世界規模での歴史(高校で日本史を選択した場合を除く。)を総合的に含むのであって、私たちは、結局のところ、それらを現在の日本の倫理で解釈してしまうことからは逃れられないわけです(ヨーロッパにおける魔女裁判や、アフリカ人奴隷貿易などは、当時の現地の倫理で解釈したら何らやましいところはないかもしれないけれども、現代の日本でそれを教えることになれば、その反倫理性に言及することがそんなにおかしいのかなあと思ってしまいます。)。
なお、特攻隊員の死が無駄であったか否かという話は、それが戦争の帰趨にどの程度の影響があったのかという話であって、「現代の倫理」との適合性の問題ではないのではないかと思います。「神風特攻」という戦術が妥当であったかという話になると、「倫理」の問題も出てくるとは思うのですが。
dimanche 11 juin 2006 dans History | Lien permanent | Commentaires (181) | TrackBack (1)
前回、「国会決議により戦犯の名誉は回復された」という見解に対する疑問を提示するエントリーを立ち上げたところ、「弁天小僧」を名乗る方から「このブログは止のるのが(人の目に触れなくするが)世のため人のため。引いてはご自身の為。」というコメントを戴きました。
わざわざ他人のブログのコメント欄にこういうコメントを書き残す方の気が知れないというが正直なところです。
もちろん「国会決議により戦犯の名誉は回復された」という言説が「A級戦犯を分祀することなく靖国神社への公式参拝を推し進めよう」という人々に利用されがちであり、それゆえ「国会決議により戦犯の名誉は回復された」という言説に対する批判が人の目に触れるということがある種のイデオローグからは不快に映ることはあり得るとは思うのですが、だからといって、そのような批判を載せたエントリーのコメント欄に、「このブログは止のるのが(人の目に触れなくするが)世のため人のため。引いてはご自身の為。」とご忠告下さる方が出てくるとは、意外でした。
しかしまあ、「引いてはご自身の為。」といっておけば、私がひるんでこのブログを閉鎖したり、ある種のイデオロギーと対峙する言動を遠慮するようになると思ったのでしょうか。「弁天小僧」氏は。
samedi 10 juin 2006 dans Loi | Lien permanent | Commentaires (4) | TrackBack (1)