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dimanche 11 juin 2006

Commentaires

VUPstar

うーんどうかなー。

高校で習う"倫理社会"だって完全にイミフで終わるんだから、一般人も逸般人も"倫理"といきなり言われても判らないんじゃないすか?だから小倉先生の"倫理"定義をキッチリやった方がいいっすよ。

サスケット

>ブログではそんなに丁寧に用語の定義を行っておらず、読み手の常識に委ねている部分は確かにありますね

ええ、ですから確認をとりました。
もちろん、間違って受け止められているものを訂正する機会を奪ったりはしませんよ。
町村さんのところでも指摘させていただきましたが、小倉さんは他人の訂正の発言を聞いてくれなかったりするので、他人もそうだと思い込んでいるのかもしれませんが、私はそんなに厳しくはありません(苦笑)

どうぞご安心を。
 
 
で。なぜ確認したかというと、前述どおりそのまま受け取ると、おかしなポイントがあったもので。
 
 
>現代の日本で殆どの人に共有されているものという意味で使っていることは普通に読めばわかることですから。

そうなんですか。
でも、小倉さん自身が私の意図を間違えてイチャモンをつけられたという実例からも読んでわからないことは往々にしてあることが理解できますし、
あるいは私が例示したポイント(神風特攻の件や、寛容/不寛容が理解しがたいという件)などからもわかるように、

読めば矛盾点が拾い出せた→そこが心配の種

というところは汲んでいただきたいカナーと。
すごく理解しやすい論調で「上は許さないが下は許せ(=つまり共有が駄目で独断がありになってしまう)」とか言ってたらどうするのかと心配していましたので。


事実。
事実、寛容不寛容の理由が理解できないといっていましたが、理解はしていただけました?

いうなれば共有することを求めているからです。
逆に考えれば、政府に不寛容で個人に寛容ということは共有の否定ではないかと思うのですが、
故にその指向が「殆どの人に共有されているものという意味で使っている」という流れと不一致じゃないか?
そういうところが疑問点だったのです、と3度目くらい言わせてもらいます。

irose

理詰めはイチャモンに含まれますか?

平田

>私は、ブログ主にイチャモンをつけることが自己目的化している人々のためにブログをつけているわけではないので、(後略)

 私も偶には辞書引いてみようと広辞苑を見てみました。
いちゃもん=文句を言うために無理に作った言いがかり。

これってこのブログのほとんど全てのエントリに当て嵌まりませんか?
なんか可哀相になってきた(哀笑)

VUPstar

小倉秀夫さま>

町村教授のブログで行き会ったVUPstarという,しがない技術屋です.
とりあえずご挨拶に伺いました.今後ともよろしくです.
膨大なエントリとコメンツなので少し読むまでROM専してます.
PS:話がよくわかんないけど,定義ははっきり提示しておいた方が揉めなくていいと思うよ.

小倉(コクラ)秀夫です

>ブログ主にイチャモンをつけることが自己目的化している人々
>イチャモンをつけることが自己目的化している方
 
 小倉先生。僕が思うに幾ら何でもそんな言い方は皆さんに失礼ですよ。
 僕が見るに、生意気なガキの僕は別として(自覚してます)も、ここに集まられる方々は、小倉先生と生産的な議論をしたいから投稿しているだけだと思います。
 だからこそ、先生の根拠やソースが欠落した立論の根拠やソースを質問したり、前後で自己矛盾を起こして破綻している先生のロジックミスを質したり、先生が独特に使っているイミフの言葉について定義や用法を丁寧に尋ねたり、しているだけですよ。

 失礼ながら、少し前の小倉先生は、TCP/IPのプロトコルやネットワークシステム設計を無視して「匿名」に独特なイチャモンを付けてダーティーなイメージを付加することで共通ID制度を殊更に美化し、これに賛同しない投稿者を「泣き寝入りを強いるのをお望みですか」と叩くことが自己目的化してませんでしたか。
 それがかなわないとなると、最近の小倉先生は、様々な政治ネタや裁判ネタでコメンテータを煽り、自説に批判的見解が投稿されたら、まってましたとばかり、「粘着」「イチャモン」「批判されるのは苦痛ですか」と罵倒や当て擦りすることが自己目的化してませんか。

 それが小倉先生の本意でないなら、ブログ管理人の説明責任に基づいて釈明して欲しいです。僕は小倉先生を尊敬していただけに悲しいです。

U-me

>そういう方々に合わせて厳密に用語を定義しつつエントリーを立ち上げるのは疲れてしまいます

おやおや
別に皆さん特段厳密な定義なんて求めていませんよ?特称命題と全称命題の使い分けなんて全然厳密な話じゃありませんし。それとも小倉さんには大変なことなのかな?
厳密な定義が必要なのは

・日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がない(全称命題)

のときだけです。
このエントリの場合、特称命題と全称命題を使い分けること、およびいくつかの疑問点に答えることさえしていれば特に定義の説明は必要ありません。そういうことも小倉さんわかってなかったとしたら大変ですねえ。

ま、あと小倉さんは他人の「読み手の常識に委ねている部分」を読むときに非常にユニークというか常識から旅立ってしまったかのような見解を示されることがしばし見られるので(よそのブログでそういう注意されたことありますよね)、小倉さんの「読み手の常識に委ねている部分」というのは他人から見るとあんまり「常識」をアテにしたくないというかできないというかなんというか。

憑依

>ブログではそんなに丁寧に用語の定義を行っておらず、読み手の常識に委ねている部分は確かにありますね。
 
 ふと思ったことがあります。小倉先生が想定している「常識」や「常識に基づく用語の定義(意味)」というのは、大方の人から乖離があるのではないでしょうか?
 「常識」が常識というよりは「小倉先生の独自の見解による『常識』」なのかも知れません。用語の定義で議論が紛糾するときはたいてこれが原因でしたから。
 それに、先生お得意の「匿名の臆病者」論争が某ブログでなされたとき、英語の専門家や「アノニマス・クラウド」をデフォルトに使っているBBS管理人まで参加されて、先生がシャープ製電子辞書による定義を持ち出しても、先生の用法や訳がどこか間違っている、という意見が圧倒的多数でしたから。
 
 用語論争や定義論争ほどむなしいものはありません。だから、たいていの学術論文は「私が本論文で使う用語の定義」を独自に規定したり、英語のコントラクトペーパーは、企業法務や渉外が専門の小倉先生ならご承知のとおり、「デクレア」の章から始まりますもの。
 この間なんか、「コンピュータ」の定義に「例外(z プログラム電子卓上計算機を含み、固定ロジックで計算する電子卓上計算機を含まない。ただし38条h項において連邦法域の適用を受けた日系企業を当事者とする場合を除く。」まであったのよ(苦笑。
 ですから用語や定義のむなしい議論なんか止めて、さっさと先生が定義を宣言して(ブログ主の専管事項で誰も文句をつけられないわよ。)、議論を進めた方がよくてよ。
 そうでないと「定義問題に逃げた」「用語用法議論にすり替えた」「あらかじめエスケープルートを保持するためにデクレアをしなかったんだ」とあらぬ誤解や非難を受けて、不愉快なことこの上ないわよ。

佩里(ハイリ)

>ブログ主にイチャモンをつけることが自己目的化している人々
>イチャモンをつけることが自己目的化している方
 
 「匿名の卑怯者」「匿名の陰に隠れた臆病者」の次は、このレッテル張りですか(苦笑。
 「イチャモンをつけることが自己目的化」しているのは、人のコメントや引用先をよく読まず尾底骨反射や盲腸反射で投稿する誤読王さんたちだけでしょう。
 相手に「イチャモンをつけることが自己目的化している方」とレッテルをビタンと張り付けてラベリングしても、そのラベルが「イチャモン」という侮辱語を含むのでレッテル内容の真性が疑われますし、そんなラベリングした人の意図や品格に疑惑の目が向けられます。
 しかも相手を特定しない不特定多数?の批判的投稿者に対し、十把一からげに「イチャモンをつけることが自己目的化している方」とラベリングする乱暴な手法を採れば、問答無用・批判退散・反論退治・ブログ主安産しか念頭にない専断的オレオレ主義との批判を受ける可能性が高いです。

 ブログを使ってインターネットという公開された場所で自説を開陳すれば、賛同も受ければ批判を受けるのは当たり前過ぎるほど当然です。現実社会の書籍出版や論文発表と同じです。
 『賛同はいただきます。批判は「イチャモン」として受け付けません。その根拠は「イチャモンをつけることが自己目的化」しているからです。』は公開された場では通用しません。
 これは既に町村教授から注意・指摘されたことでしょう。先生は何か勘違いされてませんか?

sakimi

>ブログではそんなに丁寧に用語の定義を行っておらず、読み手の常識に委ねている部分は確かにありますね。そういう方々に合わせて厳密に用語を定義しつつエントリーを立ち上げるのは疲れてしまいますから

その割に、新語「コメントスクラム」に対して提唱者の定義付けが行われなかったのは何故でしょうか?
読み手の常識に照らし合わせても、新しい言葉に定義付けがされていないのでは困ってしまいます。

Hideo_Ogura

 私は、ブログ主にイチャモンをつけることが自己目的化している人々のためにブログをつけているわけではないので、ブログではそんなに丁寧に用語の定義を行っておらず、読み手の常識に委ねている部分は確かにありますね。そういう方々に合わせて厳密に用語を定義しつつエントリーを立ち上げるのは疲れてしまいますから(それに、イチャモンをつけることが自己目的化している方にイチャモンをつけられないようにしようと思い始めるときりがありませんから。)。歴史を「現代の倫理」で解釈して教えるという場合の「現代の倫理」を、現代の日本で殆どの人に共有されているものという意味で使っていることは普通に読めばわかることですから。

U-me

> このエントリーは最初から、日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がないということを言っている

小倉さんのこのエントリの問題点の一つは

・日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がない(全称命題)
・日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がないことがある(特称命題)

この2つの混同にある、と言うことが出来ます。これは詭弁の代表的なテクの一つでもあり、また論理が苦手な人が必死こいているうちにわけわからなくなってしまうことがしばしば見られるものの一つでもあります。

これ、特称命題の方は問題ありませんが全称命題の方は問題ありありなんですよ。いろんな方が丁寧に説明していますが私は論理学の方向から指摘を。

小倉さんは「現代の倫理」を定義する必要はないものだ、としていますがそんなものについて

・日本の「現代の倫理(未定義)」で歴史を解釈して教えることは問題がない(全称命題)

としても真とはならないんですよ。なぜなら未定義だから。定義されてないものについては真と判定できないというのは論理の基本です。小倉さんは事象ごとにことなるので一概にいえないですね、といったわけですがそうなると

・日本の「現代の倫理(事象ごとの定義)」で歴史を解釈して教えることは問題がないことがある(特称命題)

こっちになるわけです。

サスケット

> このエントリーは最初から、日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がないということを言っているわけで、日本の「現代の倫理」として一般的に共有されていない教師の独自の価値観を元に歴史を解釈して教えることまで問題がないとは言っていないので、そういうことを射程に入れて必死にコメントをつけていたのだとすればそれはそれでシャドウボクシングかなと思うのです


いえ、ですから。
私は最初っからシャドウにならないように、『それは教師の独自の価値観を元に歴史を解釈して教えることを含んでいますか?』というところを再三確認とりながら発言していたのですよ。プロシュート兄貴ばりに。
というか「必死にコメントをつけていたのだとすれば」どころか、「だとして考えますが良いですか?」と既に確認までとっているので今更何事かと思いましたが大丈夫ですか?シャドウボクサーどころか、セコンドについて賛成しますよ、と言っていますから。

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>歴史の事象見て、教師が勝手に意見や世論混ぜるんでしょ?

>もっとも小倉さんが、『他のネタについては一切触れていない。それ以外のネタについては偏ってはいけない。私が触れているのは奴隷貿易や魔女裁判やデスピサロネタだけだ』ということであれば、そうですね、その条件に絞れば別に問題ないんじゃないかと(私的には)思います、と肯定しますが。その3つに類似するネタだけですか?

>そうですね、“条件付”で否定はしませんのでそれはそれ“ならば”いいと思います。
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もしかして私の「条件付で肯定しますよ」というのを 読まないで 必死にシャドウボクシングされてました?>小倉さん。


で。
条件付「肯定」もした上で、一緒に

>>歴史的事象を解釈する際に用いられる「現代の倫理」って、歴史的事象ごとに異なるのであって、一言で言うのって難しいですね。

>>個別の教師の個別の教え方が「現代の倫理」に合致していない特殊な意見の押しつけだというのならば「教師の趣味の押しつけ」という評価もわからなくはないけれども、その提示するオピニオンが一般に共有されている「現代の倫理」に合致しているのなら「教師の趣味の押しつけ」ではないと思いますけど。

>はい、矛盾が起きてしまいました(笑)
>つまり事象ごとに異なるわけで、『教師が提示したオピニオン』が必ずしも問題なく『共有されている意見』と一致するとは限らないわけですな。
 
 
安易に教師が「これ共通してる!」と考えるのは危ないんじゃないの?と言うところをダラダラ解説&問題視しているわけですよ。
何故なら小倉さん自身も「倫理」の定義づけが難しいと言っているわけで。
 
 
その証拠に小倉さん。
小倉さんは『神風特攻を「これはいいモノだ」と言う教師を弁護しちゃっていいんじゃね?』と言っていますが、
正直、私の個人的感想で言えば、弁護できません。

ほら一致しない。『小倉さんが「よい」と思った例示』を私はそう思わなかった。
 
 
 
■小倉さんが教師が神風特攻弁護という趣味(だか、オピニオンだか知らんが)の主張を認めたログ

>神風特攻などという戦術を選択してしまう指導者たちを弁護したい人は正面から弁護すればいいわけで。
 
 
 
なぜ弁護できないかというと、(私個人の。極めて個人的な意見ですが)神風特攻をよいというのは、
「魔女裁判やら奴隷貿易の類じゃね?」とか、
「盲目的に駄目だといってもあまり問題視されない例」
「良いと言ったら可哀想な眼で見られる例」
の範疇だと思っていましたので、小倉さんがそうではなく「弁護したらいい」と主張したのは目から鱗(ちと誤用か)。

#これってもちろん無駄か効果があったかの話ではなく、妥当か否かの弁護ですよね?「特攻=妥当だったと弁護していい」と。
#なぜかというと小倉さんが自身で、倫理の話=妥当性/not倫理の話=有効性とおっしゃられるので、当然倫理の話題に合致した妥当性の話されてんですよね?
 
 
…まあ、真面目に言えば。
人間切羽詰ったら、うっかりだか口が滑っただかしらないけれどこれくらいの危険主張(特攻は妥当な作戦)はやってのけるといういい例ではないでしょうか?
意外とオピニオンは一致しないぞ、という。
じゃあ、これを「問題のあった(つまり一致しなかった)『実』例」ということで提出しましょう(笑)
 
#むろん危険主張だと思うのは私の個人的見解ですが(笑)
 
 
私がボクシングしている相手はまさにそこ。
きちんと気をつけもしないで、安易に考えていると危険ではないでしょうか?ということ。
 
 
 
 
#>なお、国旗国歌の義務づけに関しては、本来「国」を意識しない行事において「国旗」を掲揚し「国歌」を斉唱するという一般に共有されているとまでは言えないルール
 
そうですか、私はいわゆる、お正月に雑煮を食べるレベルの昔ながらの慣習か何かだと思っていましたので、
「自己の主張により趣味に合わないからと従わない教師」が行事進行を邪魔するのを防ぐための規則作りだと思ってました。罰則がないと人はなかなか従わないものですし。
まあ、個人的見解としては学校単位に決めたらいいがな、と思わないでもないですが。

#話はそれますがこのルール作りの本当の理由はなんだったんでしょうね?
#私は、言ったとおり、明確にルール作りして上意下達で従わせないとおかないと収拾つかないからだろうと判断して(昨夜述べたような事件もあるし)特に疑問視しませんでした。
#だって生徒じゃなく、ルールを守らない生徒を抑えるはずの教師が暴れるんですよ?(笑)

#まあ、そのあたり、ルールの裏の裏まで知れたら面白いと思うので教えてもらいたいところ。
 
 
さて。余談はさておき、すみません。
この主張の部分を、小倉さんがちょっと誤解をされてしまったようなので訂正しますが、『国歌の話』は「ルールがあっても従わないという教師は実存する」というところの例として出しています。

つまり、「国歌を歌うというところが【共通】」という主張ではなく、
「既存ルールという【共通】に自己の趣味で従わない」という事例として提出しています。
そこは訂正させてもらいます。

故に。

実際に、セオリー(ここで言えば『コンセンサスが取れている現代の倫理に限定すること』上記例でいえば『既存ルール』)に従わないものが“実際に”存在しているが故に。
 
 
>現代人が歴史的な事象を目の前にして「現代の倫理で解釈」することから完全に逃れることなどできないと思うので、歴史の授業において「現代の倫理で解釈して」教えることをそんなに否定しても仕方ないのではないかと思ったりはします。

「仕方ない」とか、安易に考えていると、「逃れられない『個人的で特殊な現代の倫理』をルール破りで押し付けられる」危険性もあるので

>歴史の事象見て、教師が勝手に意見や世論混ぜるんでしょ?

このように、条件指定した上でマズイとボクシングしております。
なにせ、
>歴史的事象を解釈する際に用いられる「現代の倫理」って、歴史的事象ごとに異なるのであって、一言で言うのって難しいですね。
それが『コンセンサスが取れている現代の倫理』なのか、『個人的で特殊な現代の倫理』なのか判断するのは難しいですから。
 
 
 
 
 
 
>文科省によるこの種のルールの押しつけには非常に寛容度が高い人たちが、歴史教育の場で「現代の倫理」に基づいた解釈を教員が提示することにそこまで不寛容というのは、理解しがたいですね。

え?
むしろ理解しやすいと思いますよ。
「共通見解に従う」「独断の危険性」、悪く言えば「寄らば大樹の陰」、よく言えば「衆人環視の目にさらせ(レビューは重要)」に代表されるところが一致しています。
全く矛盾しません。
言葉が悪いので私なりにわかりやすく言わせてもらえば、「共通ルールに寛容で、独自判断に不寛容」なんです。全く変わりません。

もちろん、皆で考えて、上からおりてきたものが全て正しいとは言いませんが、
同様に独断認定したものも全て正しいとは限らないし、だったらまずレビューせい、と。

質問。
どこか矛盾していますか?ナニをもって理解し難いと?
まさかと思いますが、
『文科省が押し付けるんなら教師も押し付ける。上がいいのに下が駄目なんて何事か?!矛盾している、理解できん』等と 言 い だ さ な い で し ょ う ね?(笑)
 
 
むしろ私は小倉さんの「文科省による押し付けには不寛容」で「教師独断の押し付けには寛容」という『理解しやすい』ところを指して、私の逆。

つまり
「共通見解に従わない」
「独断の危険ではない」
「その共通見解は文科省による押し付けだ!」「教師独断の自由を許せ!」
「上は許さないが下は許せ」

という『理解しやすい』流れに行くことを心配しています。

というか、そんなところに疑問をもたれるということ自体、本当の意味で「コンセンサスの取れた内容」というモノを理解されているか不安です。
文科省の押し付けルールなんて、『一般的に共有』の最たるものかと思ったものですが、教師独自ルールの方が『一般的に共有』されているんですかにゃ?
それこそ理解できません(笑)

ま、そこが理解出来なかったこそ、『理解しやすい』流れ(上は駄目だが下はいい)であることを心配し、
小倉さんが本当に「『一般的に共有』の意味をわかっているか?」という点にボクシング(つまり再三確認とり)していると前述しているんですよ~。

#まあルールが妥当でないなら改正は必要だという点は同意ですが、私は、破れ、とは常識的に言わない。

平田

>このエントリーは最初から、日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がないということを言っているわけで、日本の「現代の倫理」として一般的に共有されていない教師の独自の価値観を元に歴史を解釈して教えることまで問題がないとは言っていない

 もともとこのエントリというのは「反自虐史観はとても自虐的」での、『「現代の倫理」で歴史を解釈して、ことさらに「現代に倫理」(それが独自であろうが一般的であろうが)を教えるのは歴史の授業ではない』という議論を受けてのエントリと解釈していたのですが違うのでしょうか?そうでないとすると、このエントリ自体シャドウボクシングどころかシャドウそのものということになりますが。
 つまり、喩えて言うなら、
道を歩いている動物が何の種類であるかを議論しているところに割り込んできて、「犬は犬だし、猫は猫」と主張しておいて、「犬でもないし猫でもない」と論破されると、「私は犬は犬だし、猫は猫という、当たり前のことに言及しただけなので言っていることに間違いはないし、問題なんかないですよね」と言っていることになりますが宜しいでしょうか?
 それを詭弁といわずして何を詭弁といえば宜しいのでしょうか?

佩里(ハイリ)

>学者から全然支持されていないものを「少数説」と呼べば、「異説や異端説又は俗説や笑説と言います」と文句を言われるし、
 
 それって桃太郎伝説(爆)まで行かないとしても、憑依女史お得意の「中学生の爆笑ネタ」「高校生のオジンギャグ」の話での指摘じゃないですか。歴史的事実のレベルが違わないですか。まともでない歴史学者すら相手にしてない民間伝承の類ですよ。(民俗学の研究対象という意味では別論として)
 
>「異端」と呼べば「小倉先生に悪意がなければ語彙力や品位の問題扱いされてしまいます」と言われてしまうし、ここのコメント欄の粘着君に合わせるのは大変ですね。
 
 だからね。小倉先生もずっと下の方で使った「異端説」くらいの穏やかな表現にしておけばよかったんですよ。「異端」なんて使うことはないでしょう。一応は戦前の帝国政府公式見解だったわけだから(私は大反対の見解だけど)。
 これまで「卑怯者」「臆病者」「愚か者」…(以下自主検閲で省略)などと罵倒用語を乱発しているから、同様の目で見られてしまいますよ、それでいいのですか、それは小倉先生の本意ではないでしょうと申し上げたわけなんだけどな。

Hideo_Ogura

学者から全然支持されていないものを「少数説」と呼べば、「異説や異端説又は俗説や笑説と言います」と文句を言われるし、「異端」と呼べば「小倉先生に悪意がなければ語彙力や品位の問題扱いされてしまいます」と言われてしまうし、ここのコメント欄の粘着君に合わせるのは大変ですね。

佩里(ハイリ)

 ご見解の内容の妥当性検証は、他の方に譲るとして・・・・・・。

 異端、異端、と連呼して印象操作ですか?
 「匿名の臆病者卑怯者」レッテル張り攻撃の次は(愚か者攻撃を飛ばしてもw)、異端審問所の開設ですかね。真摯かつ誠実なら、せめてもの礼節で「極端少数説」とか「異説」とか言えないですか?各歴史学会では冗談でしか「異端」なんて言いませんが(「異端」の学術定義が違うから)。
 「異端」なんて一般通常社会では魔女裁判「等」でしか使われないダーティなイメージを持つ宗教用語なのに、それを連発する意図は、小倉先生に悪意がなければ語彙力や品位の問題扱いされてしまいますが(「逸範人」扱い)、それでいいのですか?それは小倉先生がお望みのことではないと思うのですが?

佐藤

>このエントリーは最初から、日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がないということを言っているわけで、
私は、このエントリーは、日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは「時には許容されることがある」ことを言っていると思っていたので、上記の見解には、「問題がある」と思います。
なぜなら、歴史と倫理が別の科目として教えられていることからわかるように、歴史観と倫理観は本来別々に教えられるべきものだからです。

Hideo_Ogura

 私は、最初から、問題がない例を想定して話をしているので、問題のない例を想定して話をすることに文句をつけられても困ってしまいますね。いや、問題のある例というのもあまり提示されていないのですが。
 なお、先の大戦について言えば、これをネガティブに評価することは政府見解にも合致するので、とりあえず問題視されないのではないかとは思います。「日本軍の満蒙への進出は正当な権利であって、これを邪魔する米英の側に問題があった。だから日本は悪くない」という見解は、日本ですら、異端にとどまっているわけですし。

Hideo_Ogura

 このエントリーは最初から、日本の「現代の倫理」で歴史を解釈して教えることは問題がないということを言っているわけで、日本の「現代の倫理」として一般的に共有されていない教師の独自の価値観を元に歴史を解釈して教えることまで問題がないとは言っていないので、そういうことを射程に入れて必死にコメントをつけていたのだとすればそれはそれでシャドウボクシングかなと思うのです。いまどき皇国史観で突き進まれたら、そりゃ、問題視されるでしょうし、それは仕方がないとは思うのです。

 なお、国旗国歌の義務づけに関しては、本来「国」を意識しない行事において「国旗」を掲揚し「国歌」を斉唱するという一般に共有されているとまでは言えないルールを押しつけようとした文部科学省に問題があるのでしょうね(文科省の管轄下にない行事の場合、君が代斉唱率というのはかなり低いわけで。さらにいうと、入学式や卒業式で国歌を斉唱するということ自体、国際的に見ても、必ずしも一般的とは言い難いですし。)。

 文科省によるこの種のルールの押しつけには非常に寛容度が高い人たちが、歴史教育の場で「現代の倫理」に基づいた解釈を教員が提示することにそこまで不寛容というのは、理解しがたいですね。

サスケット

しかしまあ、

>校長先生とか、教育委員会とか、生徒の親御さんのご意向を気にする方が、教員としては合理的ですから。

小倉さんが言うようなそういう合理的判断が出来ないアホ教師が、卒業式で国家を歌うな座っていろ、と校長の制止も無視して暴れるから問題なんですよなー。

いや、オグラさんの言うとおりですよ。(むしろ最初から私が言っていることだが(笑))
言うとおり、そんな無能教師が自己判断で意見さしはさもうなんて間違ってるってことですよね。同意同意。

サスケット

>サスケットさんの頭の中にある脳内ルールに適切に合わせられる教員なんてなかなかいないとは思うのです。
>校長先生とか、教育委員会とか、生徒の親御さんのご意向を気にする方が、教員としては合理的ですから。

語るに落ちちゃってますね(苦笑)
やっぱり私の言うとおり教師の意思はさしはさまず、教育委員会のご威光や、世論にしたがってみたら良いのではないかということですかね。

>>#そんな駄目だったら上意下達で教科書か指導要領に全部書いとかないともう駄目なのかもわからんね。
>>#ソレこそ完全にオクニに依存だけど、出来ないって言うなら仕方ない。
 
 
私の脳内ルールどおり、自己判断できない教師は、校長や教育委員会に上意下達で従っていくんですか。ちゃんと私の脳内ルールにあわせてくれていますが小倉さん、矛盾してませんか?


>ナチスによるユダヤ人虐殺については、これをポジティブに評価する意見をこれをネガティブに評価する意見とパラレルにニュートラルに教えなくともたまたま多くの人と意見が一致するから問題とならないというより、これら両者をニュートラルに教えるとむしろそちらの方が問題視されるのだろうと思うのですけどね。

ええ、そういう問題教師が出てこないコンセンサスが取れた事象を使用するのは印象操作っぽいので区別して考えたほうがいいと既に述べております。


>歴史の授業で、「人類の起源」の項目で、猿から人間へと進化していく過程と、日本書紀等に記載されている創世記とをニュートラルに両論併記して教えたとしてもやはり問題視されるでしょう。

#ノリつっこみすると、そうそう、ってそれは生物と国文の授業一緒にやってね?!とか言うネタはおいといて。

例題が不適切で反論しずらいな。
つまり

>基本的にコンセンサスが得られている見解を教える分には、異論に対してニュートラルであることは要求されていないということがいえるのでしょう。

おっしゃるとおり、奴隷貿易だとかコンセンサスが取れてる事象については問題視されないので、それは別としてと既に言っているんですが、小倉さんの脳内では別の会話をしていませんか?
もしかして未読王ですか?(笑)

だから途中で、
------------------------
>>歴史的事象を「現代の倫理」で解釈して教えること一般を否定されないのであれば、別にそれはそれでいいのではないですか?
>そうですね、“条件付”で否定はしませんのでそれはそれ“ならば”いいと思います。

>現代の倫理=共通のコンセンサスならば良いでしょう。(奴隷裁判だとか魔女貿易だとか)
そうではない、そういった共通性が薄い事象を教師が「じゃあこれが世論です」と勝手に採択する危険性を思って、

>>歴史の事象見て、教師が勝手に意見や世論混ぜるんでしょ?
>>そりゃ駄目でしょう。

>といっているわけですな。一番最初に。
------------------------
とも言っているのですがもう脳内では改変済みですか?
参ったなあ…(笑)
じゃあ、先にこっちを呼んでもらっても良いかも。
http://benli.typepad.com/annex_jp/2006/06/hard_to_say_you.html#comment-18733284


小倉さんは、相手の意見を脳内妄想で改変する癖は改めたほうが良いでしょう。

Hideo_Ogura

 サスケットさんの頭の中にある脳内ルールに適切に合わせられる教員なんてなかなかいないとは思うのです。ネット上で匿名で文句をつけるくらいしかできない人々のご意向を気にするよりは、校長先生とか、教育委員会とか、生徒の親御さんのご意向を気にする方が、教員としては合理的ですから。
 ナチスによるユダヤ人虐殺については、これをポジティブに評価する意見をこれをネガティブに評価する意見とパラレルにニュートラルに教えなくともたまたま多くの人と意見が一致するから問題とならないというより、これら両者をニュートラルに教えるとむしろそちらの方が問題視されるのだろうと思うのですけどね。歴史の授業で、「人類の起源」の項目で、猿から人間へと進化していく過程と、日本書紀等に記載されている創世記とをニュートラルに両論併記して教えたとしてもやはり問題視されるでしょう。
 そういう意味では、むしろ、学校の教師がその社会で、異論を唱える人が0ではないとしても、基本的にコンセンサスが得られている見解を教える分には、異論に対してニュートラルであることは要求されていないということがいえるのでしょう。だから、明智光秀は山崎の合戦のあとの落ち武者狩りで落命したと教えておけば、実は生き延びて後に天海僧正として徳川幕府を支えたという異端説をニュートラルに併記して教えなくとも良いし、南京大虐殺はなかったという異端説をニュートラルに併記して教えなくとも良いのでしょう(どちらも、異端説の信奉者からは文句を言われるおそれはあるわけですが。)。

佩里(ハイリ)

>憑依女史
>サスケット様

>>そこは人類の知恵の両論併記です。
>同意です。
>>>問題視される教師はまず客観的にそれを考えないといけないね。
>>>教えるにしても、何で反対意見が出るのかとか、そういうところも込みで教えるとためになるんじゃないかとおもうんだけどな。
 
 本当にそうですね。最高裁判決も補足意見や反対意見が併記されていて、現在から後世に至る批判にさらされるようにされています。
 そこでは極論(極端論)や非合理的な理論なんかなくて、相当議論を重ねたり真摯に自説と反対する説をも分析して熟考した跡がうかがわれます。
 思いつきや脊髄反射(骨髄反射~尾骶骨反射~盲腸反射w)の意見ではないので、自分とは反対の説でも「なるほど、敵ながらアッパレ」と思わせるところがあります。
 おそらく自説と反対の説であっても、反対のための反対という「突っ込みどころ漁り」という無駄で非理性的なことをしないで、反対説もじっくり耳を傾けて聞くという聞く耳を持つ者の英知なのでしょう。

佩里(ハイリ)

>憑依女史
 
>大事なことは
>    事実認定は価値判断に先行する
>という歴史学の基本を守ることが必要でしょう。
 
 そのとおりでしょう。私は人類を幸福するイデオロギーならドレとこだわる者ではない無節操人間ですが、賛成意見です。
 そして、久々にこのブログをざっと見て、憑依女史のコメントを見たとき、唐突に2ちゃんねるの司法試験イタの某スレで見付けた米国法曹ジョークを思い出しました。

パートナー弁護士:
 法廷では、事実を叩け、事実を叩いても駄目なら証拠を叩け、証拠を叩いても駄目なら法律を叩け、法律を叩いても駄目なら合衆国憲法を叩け!
アソシエイト弁護士:
 ボス、それでも駄目ならどうするんですか?
パートナー弁護士:
 決まっとる、机を叩け!
 みんなロースクールで弁証法と討論術と詭弁学を学んでいるから、詭弁を弄したらことごとく敗訴するぞ。よく覚えておけ。とにかく机をバンバン叩け!

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