コメントスクラム等を論ずると、「理詰めならいいのか」と繰り返し言ってくる方がいます。
これに対しては、この方の仰っている「理詰めのコメント」というのが今ひとつイメージとして涌かないので、何とも答えようがありません。というのも「理詰め」というのは、対話の一方当事者によるその独自の「理」の他方当事者に対する押しつけにすぎない場合や、単なる揚げ足取りによる、他方当事者の言説の撤回・変更の押しつけにすぎない場合が多々あるからです(「理詰めの取調べ」がしばしば「自白の任意性を疑わせるもの」の一つとして意識されるのは、そのためです。)。
さらにいうと、「理詰めの議論」というのが意味を持つのは、「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境がある場合(例えば、被疑者が取り調べをうけている状態や、証人が尋問を受けている状態等)に限られるのであって、「理論的に追いつめられた場合以外であっても、きちんとした反論をしなくなる十分に合理的な事情がある場合」には、やっている本人とそのお仲間だけが「理詰めの議論で相手を追いつめている」と勘違いしているにすぎない場合が往々にしてあるので、いかがなものかなあと思うのです。
ブログのコメント欄についていうと、一つのエントリーに付いたコメントに対してブログ主が応答する気になる量というのは、ブログ主の性格や多忙さ、或いは当該エントリーの性質によって差異はあるにせよ、自ずと限界があるし、ブログ主に対して「理詰めで追及してやろう」と主観的に思っている人たちはブログ主に対して無駄に戦闘的なのでそういう人を相手にするために時間を使うのはブログ主としては大して楽しいことではないので、しつこいコメンテーターとの「議論」を一方的に打ち切るというのは合理的な判断であり(実際、あとでイチャモンに繋げる気ありありの伏線的な「質問」にわざわざ貴重な余暇時間・休憩時間を使って答えてあげようという動機ってブログ主側にはなかなか涌いてこないものですし。)、したがってコメント欄というのは「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境とは言えなさそうです。
他人のブログのコメント欄に「理詰め」の議論を仕掛けるべく、伏線的な質問からはいるとかそういうくだらないことに頭を使う暇があったら、そのエントリーの主題についてより説得的な議論を自分のブログのエントリーに掲載する方がはるかに生産的だと思います。
> 十把一からげに
正解です。
基本的に、
『「理詰め」は○○に含まれますか』
という文は、
・「コメント」を何か別の言葉(○○)で言い換えていて、
・それが、コメント内容が選別されているのか十把一からげなのか区別がつかなくて、
・その(○○)言い回しが新規
の時
に書かれます。
○○:
・誹謗中傷
・卑怯な攻撃
・迷惑
・攻撃
・イチャモン
ですから、
・『「理詰め」は○○に含まれますか』が繰り返し、ということは、
・「コメント」を何か別の言葉で言い換えることが繰り返されている
ということです。
Rédigé par : irose | samedi 24 juin 2006 à 07:20
>さらにいうと、「理詰めの議論」というのが意味を持つのは、「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境がある場合
ア、イヤ。
それは見方が逆になっていないですか?
つまりですね。
もともとは
コメントスクラム=コメントがいっぱいつく=迷惑なもの
みたいな印象で小倉さんは話されていたと思います。
そもそも理詰め(議論や思考を理屈だけでおしすすめること)なので、ともかく理は通っているわけです。
つまり、形式的には理屈の通った議論に対し、(共通IDだかなんだか知らないけれど)個人情報をばらして圧迫させようという方向性はまずいんじゃないの?というところが問題であって、
「理詰めで反論がないから勝ちだなんて意味がない」という論調こそ意味がないのではと思われます。
そうではなくて、コメントスクラムという現象の中には、バカな子もいれば頭使ってる人もいるわけで、それをうまく選別せねばならんと。
十把一からげに対応するものなのか、理屈屋さんは除外して考えるのか。
というところで
・理詰めはコメントスクラム(迷惑行為)ですか?
・理詰めはイチャモン(迷惑行為)ですか?
という質問になっていると思われます。
繰り返しますが、反論があるなしとかは関係ないのではなかろうか。
と、私は判断して眺めてルー。
*私はめんどくさいときまでコメントに返事をつける必要ないじゃん政党の人間です。
Rédigé par : サスケット | samedi 24 juin 2006 à 02:43
フローチャート形式で書いたら誤読が無くなると思いますよ
基本的に小倉先生の分岐条件が恣意的or例外処理が多いから変だとみんなが思っているだけですから
Rédigé par : sakimi | vendredi 23 juin 2006 à 21:35
>したがってコメント欄というのは「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境とは言えなさそうです。
すいません、一つ質問があります。
ブログ主が、理論的に追いつめられている場合も、そうでない場合も、きっちりと反論しないしたことなど一度もないのに、自分だけで「きっちりと反論している」と勘違いしている場合はイチャモンつけても宜しいのでしょうか?
Rédigé par : 平田 | vendredi 23 juin 2006 à 20:49
>(第2段落)
であれば、
現場の教師が独自の「理」によって『現代の倫理』を選択して押し付けて教える
可能性
は存在しますね?
Rédigé par : irose | vendredi 23 juin 2006 à 12:52
【参考情報の提供】
ブログ主のご主張に鑑み、皆様の冷静かつ学術的な議論へと深まることを祈念して、僭越ながら情報提供します。
判旨「理詰の質問に基づく自白というだけでは、任意性がないことにはならない。」
昭和23年11月17日最高裁大法廷判決、最高裁判所刑事判例集2巻12号1565頁
昭和25年8月30日名古屋高裁判決、判例時報13号76頁
昭和28年5月28日名古屋高裁金沢支部判決、高等裁判所刑事判例集6巻9号1112頁
判旨「取調べ官からポリグラフ検査の結果を告げられた後になされた自白であっても、任意性のないものとはいえない。」(科学的検査の結果を告げて真実を述べるよう追及する尋問も強制とはいえないとして紹介される判例)
昭和39年6月1日最高裁決定、最高裁判所刑事判例集18巻5号177頁
Rédigé par : 忙中閑人 | vendredi 23 juin 2006 à 10:06