「実名/匿名」論議においては、しばしば「自分たちには実名を用いるメリットがない」という言い方がなされることがあります。しかし、実際は逆ではないかと思います。むしろ、実名を用いてブログを開設することは、現時点において自分の能力(または潜在能力)に応じた処遇を得られていない人々にこそメリットがあると言えるのではないかと思います。
実名を用いてブログを開設していると、その人のバランス感覚や、その人の表現力や、その人の発想力や、その人の問題意識等が、その人の現実社会での人格と結びつく形で不特定多数人に把握されることになります。そして、この不特定多数人の中には、粘着君や犯罪者だけではなく、特定の能力・資質等に高度の比較優位性を持つ人材を必要としている人々が含まれています。ブログの記載から滲出するブロガーの能力・資質等が、それらの人々の求める能力・資質等と合致したときには、当該ブロガーはそれらの人々から「有能な人材」として認識されることになるし、それらの人々からアプローチを受けることにも繋がり得ます。
それは、小飼弾さんの「名声の口座」論にも近いのですが、「名声」という言葉の敷居の高さがなおも「自分とは関係のない話」感を生み出してしまったのではないかという感じがします。もちろん、小飼さん自身はそんなに敷居の高いものとして「名声」という言葉を使ったわけではなさそうですし、実際、企業等が必要としている資質というのはそんなに飛び抜けたものではないので、「実社会においても名が既に知れている・社会的影響力のある人間か、或いは何かのきっかけがあればすぐにそうなり得る人」(上記エントリーのコメント欄でのncd108 氏のコメント)以外にも適用される話なのではないかと思います。
そういう話をすると、実名を公開すると誰に何をされるかわからず危険だ云々という話をする人がしばしば現れるわけですが、社会に出てある程度の実績を積むと、どうしたって自分が知らない人に自分のことが知られているという事態は不可避的に発生するわけで、それを怖れていたら何もできないとしか言いようがありません。「金持ち」として著名であったが故に誘拐された事件などが報じられると「それ見たことか」みたいな考えを持つ人もいるかもしれないけれども、営利目的誘拐の被害者(またはその両親)の大部分は「金持ち」として著名だったわけではないし、わいせつ目的誘拐の被害者だって、ネットを含むマスメディア上で性的な魅力を不特定多数人にアピールしている人たちが顕著にそうなる傾向を有しているのかというとそうではなくて、たまたま犯人にとって魅力があったにすぎない人たちがそうなってしまうというのが実情です。そして、むしろ目指すべきは、無名のままでとどまってさえいれば安全地帯にいられる社会ではなくて、その能力・資質等に応じた処遇を得ていても安心して暮らせる社会ですし、現在のところ、日本の現実社会はまあまあそういう社会を維持できているように思います。