コメントスクラム等を論ずると、「理詰めならいいのか」と繰り返し言ってくる方がいます。
これに対しては、この方の仰っている「理詰めのコメント」というのが今ひとつイメージとして涌かないので、何とも答えようがありません。というのも「理詰め」というのは、対話の一方当事者によるその独自の「理」の他方当事者に対する押しつけにすぎない場合や、単なる揚げ足取りによる、他方当事者の言説の撤回・変更の押しつけにすぎない場合が多々あるからです(「理詰めの取調べ」がしばしば「自白の任意性を疑わせるもの」の一つとして意識されるのは、そのためです。)。
さらにいうと、「理詰めの議論」というのが意味を持つのは、「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境がある場合(例えば、被疑者が取り調べをうけている状態や、証人が尋問を受けている状態等)に限られるのであって、「理論的に追いつめられた場合以外であっても、きちんとした反論をしなくなる十分に合理的な事情がある場合」には、やっている本人とそのお仲間だけが「理詰めの議論で相手を追いつめている」と勘違いしているにすぎない場合が往々にしてあるので、いかがなものかなあと思うのです。
ブログのコメント欄についていうと、一つのエントリーに付いたコメントに対してブログ主が応答する気になる量というのは、ブログ主の性格や多忙さ、或いは当該エントリーの性質によって差異はあるにせよ、自ずと限界があるし、ブログ主に対して「理詰めで追及してやろう」と主観的に思っている人たちはブログ主に対して無駄に戦闘的なのでそういう人を相手にするために時間を使うのはブログ主としては大して楽しいことではないので、しつこいコメンテーターとの「議論」を一方的に打ち切るというのは合理的な判断であり(実際、あとでイチャモンに繋げる気ありありの伏線的な「質問」にわざわざ貴重な余暇時間・休憩時間を使って答えてあげようという動機ってブログ主側にはなかなか涌いてこないものですし。)、したがってコメント欄というのは「理論的に追いつめられた場合以外はきっちり反論してくるはずだ」という環境とは言えなさそうです。
他人のブログのコメント欄に「理詰め」の議論を仕掛けるべく、伏線的な質問からはいるとかそういうくだらないことに頭を使う暇があったら、そのエントリーの主題についてより説得的な議論を自分のブログのエントリーに掲載する方がはるかに生産的だと思います。