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mardi 03 janvier 2006

Commentaires

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いや・・・
ネッ徳とは、今思いついた造語です。
「ネットウヨを憤慨させながらも集めてもはや尊敬の念すらおこすほどの炎上ぶり」をこう表現してみました。

関口悟

ネット人徳ですか。「ネッ徳」という言葉を初めて拝見し、思わず調べてしまいました。私はそれを知らない程度でしか小倉さん関係のブログを見ていなかったということのようです。私はブログ主ではないものの、管理者的役割を果たす場合はあります。そのようなものが身に付いていればいいなと思いますね。

おっしゃるとおり、ご指摘の部分は、投稿してしまった後、少々気になっていた部分です。「皆さんが気分を害するやりとりの全体はつかめていないでしょう(が、その大枠はつかめていると思います)。」くらいの方が適切でしたね。

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関口様はじめまして。
丁寧なコメント、ブログ主のネッ徳と思います。

些細なことで非常に恐縮なのですが。

「一般的なブログでの匿名発言をめぐるコメントについては、発言(と他者の反応)に一定のパターンがある気がするので」
とあれば普通なら。
「皆さんが気分を害する構造の全体像はつかめていると思います。」
となるのでは?

関口悟

私はここへ来たのも久しぶりですし、常日頃小倉さんの各所での発言をウォッチしている訳でもないので、発言の一部しか知らないのです。著作権関係にかかわるコメントなどは、注意深く拝見することもありますが、一般的なブログでの匿名発言をめぐるコメントについては、発言(と他者の反応)に一定のパターンがある気がするので、一旦、氏の主張を理解したあとは、機会があっても殊更細かなやりとりまで見る必要性をあまり感じないのです。ですから、皆さんが気分を害する構造の全体像はつかめていないでしょう。先のエントリにも書いたように、発言の前提条件が異なる可能性は否定しません。

私も、小倉さんの表現には普通より刺激的な傾向があるとは思いますよ。ただ、個人的には、他者・異質なもの、罵倒や揶揄嘲笑への「耐性」が高いのか(笑)、それほどムッとしませんし、少なくとも弁護士会での懲戒事由にあたるほどのものではないとも思っています。オープンな場での議論を成り立たせるためには、高い寛容性が必要と考えているため、意識的に「耐性」を高めているだけかもしれないのですが。「耐性」を高くしておかないと、相手の主張の核心や意図を理解しようとする前に、表面的な表現で頭に血が上ってしまって、よろしくないという経験が多いからです。

とはいえ、多様な評価がありうる特定の表現に対して、同じ土俵で個人の感想を書いていても面白くないし、それをわざわざ書き込もうとも思わないのです。そこで、一歩引いて何故各所でフレーミングが起きるのだろうと考えてみたわけです。そういう意味では、視点が違うので、論点ずらしどころか、別問題といってよいでしょうね。

関口悟

私は小倉さんが「卑怯者」「臆病者」「下品」などの言葉を多用することについて、必ずしも罵倒しているとは思いません。というのは、法律の世界ではしばしば、そのような一見過激な表現で、特定の概念を表すことがあるからです。特に、その概念が外来のものであって、無理矢理日本語化したような表現の場合に多いように思います。

あまり良い例を思いつかないのですが、たとえば、信義則をめぐって、クリーンハンドの原則という概念があります。「自ら法を尊重するものだけが他者へ法の尊重を要求することができる」ということなのですが、この原則についての記述で、「手が汚れた者」というような表現をすることがあるわけです。
一般的には、「汚れる」などと言われると、ドキッとしてなんとなく気分が悪いのですが、法律の世界では類似のキツい表現はしょっちゅう使われるのです。したがって、小倉さんが、主張や利害関係を明確にする必要がある法的思考過程において「匿名の陰に隠れた卑怯者」などの概念を生み出し、名付けたとしても、法的概念としてはそれほどアレルギー反応は起こらないように思います。

さらに、そうした概念や、それに基づいた主張を世の中に広めるためには、刺激的で目立ちやすい名称を付けた方が都合が良いのです。たとえば、ベストセラー本で「バカの壁」という概念を題名にした本がありますが、あの本はその概念のネーミングが刺激的であることが、注目を浴びた理由の一つと言っても良いでしょう。ですから、ブログやコラム等で小倉さんが刺激的な概念を考案し、広めていることについては私はむしろ「うまいな」と、肯定的にさえ評価したいのです。

ただし、その概念をいわば「免疫」のない一般世界に持ち込むと摩擦が起こります。小倉さんの言う卑怯とは、あくまでカッコ付きの独特の意味を持つ「卑怯」なのであって、一般的な意味とは異なるはずです。ところが、突然その言葉に接した一般人は、ある種の誤解とともにびっくりして、気分を害する場合もあるわけです。だからといって、小倉さんも一度つくってしまったその概念を使わなければ、積み上げてきた独自の世界観を一言で表象することができなくなってしまいます。このズレが様々な摩擦を各所で引き起こしているように思えてなりません。

私は、小倉さんの各所における発言の全てを知っているわけではありませんから、他者の気分を害する要素が他にもある可能性までは否定しません。ただ、多数の興味を引きつけるという意味でセンスの良いネーミングのせいで、多くの非難を受けている現状を、いささかの同情をもって見ている次第です。

関口悟

「空気」とは、あるネット空間に存在する人々によって醸成されます。ネット空間に確立したTPOが存在しない現状で、管理者が緩やかなローカルルールしか設定していない場合、特に「常連」のように頻繁に発言する人々によって、一定の発言マナー的な事実上の規範が醸成されるのです。
そうした規範はなんらかの制度上の権限に裏打ちされたものではありませんが、長期にわたって事実上の規範が継続すると、一種の慣習法的効果が生じるように思います。これは、「事実たる慣習」と呼べるほどのものではありませんが、「常連」参加者の意識の上では、自ら醸成した事実上の規範に正当性があるような認識をしやすい状況になるということはいえるでしょう。それは相当程度、錯覚といえるでしょうが、長期にわたって一定の状態が継続していることにある種の法源を見いだすならば、若干の正当性を認めるべき場合もありうるのかもしれません。
もっとも、コメント欄で他者に一定のマナー・スタイルを要求できるだけ十分長期にわたって事実上の規範が継続しているケースは、個人的にはほとんどないと思いますが。

結局、他者・異質なものを受け容れる寛容性の問題のような気もしますね。森さんの「空気」が違うのではないかという意見表明についての指摘はその通りかと思います。オープンな場においては、高い寛容性をもつことがオープンたりうる前提なのですから。

bold

私は「個人間の遺恨、怨嗟、錯誤、ミス、成り行きなどでネット上の匿名者の実態が暴露されるのはいた仕方がない」という立場でおります。
それが「法律に国や企業の関与により、全般的に共通に行われることに強く反対する」立場であり、これらは従来より一貫しています。

その点で私の立場は「ネット上の現状の追認」であって「ずっと先」ということではなく、先生の大いなる勘違いかと存じます。

中井亀=吉田

Hideo_Ogura

 実体験とはいいますが、吉田望さんの件は、責任主体を特定するための個人情報の開示を求めたというより、批評者が自分の著作を批評する資格があるのかを検証するための情報の開示まで求めたわけで、ネット上の実名/匿名論争が主として対象としているところよりはずっと先の問題ではないかと思います。

Hideo_Ogura

 それならまず、匿名コメンテーターが実名ブロガーに絡んでくるのをやめた方がいいのではないかと思うのです。黒木ルーツ的な匿名批判禁止ルールを採用したり、津村ドクトリンのように匿名さんの相手にしないところがあっても別によいのであって、それを「俺を批判することの禁止」という子供っぽい話に矮小化する必要はないのです。

 自分たちは匿名の陰に隠れて実名系のブロガー等の攻撃したいけれども、実名系の人たちが自分たちを批判するのは許せないでは、まったくのご都合主義ではないですか?

 さらにいうと、加野瀬さんのブログのコメント欄って、もともと学術系の人たちが実名や実名とすぐに分かる仮名(はてなダイアリーで実名を晒しているIDを用いている場合を含む。)を用いて投稿することが少なくないブログであって、別に、実名を用いてコメントを投稿すること自体はそんなに珍しいことではないし、私と加野瀬さんは、ised倫理研の委員として、現実空間で互いに顔見知りな存在なので、私があそこにコメントを投稿することを「常連」云々にとやかく言われる筋合いはないのです。

森

 空気嫁の一番の問題点は、「空気嫁」だけでは何の意見も表明していない点でしょう。というか、その「空気」が違うのではないかという意見表明に対して「嫁」と言うほど無意味なことはないでしょうね。

bold

匿名を相手に論争することの危険:

実体験をもとに書きますが・・・相手が匿名(ハンドル)ですと、それに対して何をどう批判しても、実際の人間が特定されているわけではないので、「法的な名誉毀損」に当たらないと思うのです。
そうなりますと。
実名の人間が反論する場合、相手が実名とわかっている場合に比べてハンドルに対してのほうが、どうしても批難の程度が強くなってしまいがちです。その抑制は誰にとっても難しいことと思います・・・

ところが匿名(ハンドル)の当事者にとっては、たとえばハンドルネームであっても愛着や誇りがあり、そのバーチャル人格への批判を、法的でない、ある種「ネット的な名誉毀損」ととらえます。この不当感の表現は、ネットという場において、もっとも表現がたやすくまた同意も得られやすい(空気嫁?)感覚のように思われます。

この「法的な名誉毀損」と「ネット的な名誉毀損」をイコールにおくべきなのかどうか。ネットの空気では、それは頼むから切り離してくれ。そもそも匿名同士の言論でいいところを、あえて実名を名乗る人が実社会を持ち込み、全員実名をなのってイコールな世界に持っていく、というのは、あんまりである。そういう意見ならば、批判コメントを自ら制限・削除すべしということでしょう。

さて。ネットには本質的にこうした非対称性(実名のほうは「法的名誉毀損」匿名(ハンドル)のほうは「ネット的名誉毀損」)があるため通常、よほどの得や使命感、覚悟がなければ実名ブログを立ち上げようとはしない。また、匿名と自らを同じ土俵に置く反論は上記の理由よりしないほうがいい、ということを加野瀬さんは示唆しています。これはネットのみならず、実社会でも結構そういう意見が主流ではないか、と思うのですが・・(実体験上からも)

ぶっちゃけ。
そうした正論はおいておいて、小さな利害を超えて戦われる先生は私はネットエンターテイメントにおけるある種ヒールアイドルか、カルトヒーローだと思いますけどね(とエール)

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たしなめる=非礼・不作法などを「軽く」叱る。(この軽くが重要)

私はその場合、冷静・有礼・丁寧な第三者が「たしなめる」べし、と思います。
それを本人がたしなめる場合、軽いものとはなりえず、また非礼・無作法の程度をめぐる際限のない言い合いが続くので、火に油を注いでしまうように思われます。

Hideo_Ogura

 「空気嫁」というときの「空気」というのは社会一般に通用する規範とは直接的には関係なく、「空気嫁」と発言して特定の発言者の発言を抑制しようとしている人及びその賛同者数名の主観でしかないというところが大きく違うと言えるのではないでしょうか。
 例えば、あるブログのコメント欄で何人かの人がブログ主を誹謗中傷する発言を連投して楽しんでいるときにそれをたしなめる発言をした場合、たしなめる発言をした人は周囲の人々から白眼視される虞はないのですが、誹謗中傷するコメントを連投して楽しんでいる人々やその賛同者からは「空気嫁」として発言を抑圧される危険はありますし、これに逆らって誹謗中傷をたしなめる発言を続けた場合、今度は自分が誹謗中傷を受ける側に回る危険がありますね。
 中井さんは、例えばあるブログのコメント欄で何人かの人が特定の人を誹謗中傷する発言を連投しているときにこれをたしなめる発言を行うことはすべきではないことだと思いますか?

平田

もうね、いつもいつもどうしてこうも前提から間違えるのか不思議になってしまいます。

>ネット上ではよく「空気嫁」とか言って他人の発言を抑圧しようとする人がいます。

「空気嫁」と言われることが自分の発言を抑圧しようとしていると感じるということは、自分がやっていることがどういうことなのか既に分かっているということじゃないですか。

>しかし、これって、「言いたいことが言える」というネット空間の特性を破壊しようという行いだと言えます。

普通に考えれば、空気を読んでから言いたいことを言ってくださいね。ということで何も言ってはいけないと言っているわけではないです。

>彼らは結局、言いたいことが言いにくくなる「場」を作り出す主導権を自分たちが持とうとしているだけのことです。(以下略)

ということなのでそれ以降の主張は前提を考え直してからもう一度言いたいことを整理して出直してください。

忖度すると、まあ言いたいことのだいたいは分かりますが、またエントリに沿ってないとか言って抑圧されそうなのでちょっとだけにしておきます。
貴方がこのエントリで言っていることを皆が認めて、やったとしても(多分、)単に20年か30年くらいネットの歴史を巻き戻すだけですよ。歴史が間違っていたんだから、もう一度やり直しましょうとでも言ってるんですか?

irose

つか「匿名/実名」問題と「空気嫁」は独立事象だしぃ。

匿名呆曹

>bold 様

 ご指摘の1)と2)は一般の普通の人にとって同じことの別の表現だと思います。ただ単にTPOを考えて行動しましょうということです。
 頼まれもしないところに一方的に押しかけて、自分勝手な意見を押し付けたり、それに反発されると反発する方がおかしい下品なコメントだなどと罵倒したりするのは、周囲の迷惑を全く考えない独りよがりなよくな行いですよ、という当然のことをサジェスチョンしただけものだと思います。

bold

賛同いたします。まことにおっしゃるとおりで単に空気を読むだけでは大胆なことはいえないものです。

ところで。
1)空気嫁と、
2)周囲の人々から白眼視されてしまうような「批判」は、「公言」を控えるか、あるいはどうしても「公言」せずにはいられないのでしたら、周囲の人々から白眼視されることを甘受するのが「大人の対応」

と・・・どうちがうのでしょう???

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